視覚の奥行きへ向かうためのエスキス
●視覚の奥行きへ向かうためのエスキス pdfデータ(2018.2.7 登録)
☆okuyuki.pdf
◎esquisse0 (2013.3.3)
絵画の準備を!
<幅>から<奥行き>へ
◎esquisse1 (2013.3.3)
像
物体の分裂:
デュシャンのレディメイド
◎esquisse2 (2013.3.4)
純粋視覚の不可能性:
「網膜の受動性」への批判
◎esquisse3 (2013.3.4)
パッション=受苦:
受動性と先験性を区別すること
芸術それ自体が一種の超=自然
◎esquisse4 (2013.3.6)
見えるものと見えないものとを総合する行為としての「見ること」
眼は手のようにものをつかむ
◎esquisse-interlude (2013.3.11)
志村ふくみ『薔薇のことぶれ: リルケ書簡』
〜小林秀雄「近代絵画」
◎esquisse5 (2013.3.12)
奥行きを見ること
存在者との呼吸
世界との呼吸
記憶の向こう側の奥行きを見ること
世界表象
◎esquisse6 (2013.3.20)
モナドロジー
転換可能性(可逆性)
裏返し
内と外とがたがいに密着している裏返し点としての「襞」
交叉配列(キアスム)
◎esquisse7 (2013.3.25)
《鏡像について》
鏡像
始原的空間と幾何学的空間における身体の同一性と差異性
ラカンの鏡像段階説
他者、そして世界は鏡像である
私も鏡像である
私はどこにいるのか
「か・が・み」のなかの「我」
◎esquisse8 (2013.3.27)
《幅(点)から奥行き(円)への「自覚」と往還》
点ではなく述語的統一としての円としての「私」の意識
無の場所
有と無・物質空間とエーテル空間
絶対無の自覚的限定
絶対の他において自己を見る
点と円の往還
◎esquisse9 (2013.4.2)
《ホワイトヘッドの「こと」的世界観と時間の非連続的連続》
有機体の哲学
「こと」的世界観
アクチュアルエンティティ(活動的存在)
抱握=縁起
エポック的時間=刹那滅(時間の非連続的連続)
プロセスが実在である
純粋持続、エーテル空間、永遠の今
永続的存在者と絶対無
◎esquisse10 (2013.4.5)
《私たちがどのような世界観のもとに生きているのかを意識し検討すること》
自らの世界観を意識すること
「神なしの知性」から
認識論
科学認識論としてのエピステモロジーにドゥルーズの「内在の哲学」を接続する
◎esquisse-interlude2 (2013.4.8)
《観ることと見ること》
◎esquisse11 (2013.4.16)
《なぜ数学があるのか〜数学的経験の可能性》
「世界」の情報をコントロールするためには思考が不可欠である
数学は問題と解を共有することができる形式・体系を有している
数学は歴史に規定されているが、記号処理、概念処理における「過程としての真理」である
見えないものを観るための数学と数学的経験
◎esquisse12 (2013.4.17)
《概念創造・変革としての数学的経験/解と問題との往還・プロセス》
「奥行き」を経験するための対象のない思考としての純粋な「概念」の創造世界としての数学
「概念」を立てることは世界創造であり世界変革である
新たな「概念」が導入されると、その分節化、差異化によって「世界」は新たな位相(フェーズ)に入る
「概念」はモナドのように世界全体を相照らす関係性のなかに置かれ、そこで遊戯する
生きた概念は私たちの経験の縮約である
真理は過程としての真理であり、その過程を経験するのが数学的経験である
解と問題(問い)との往還・プロセスを促進する懐疑と自然
「奥行き」という神秘文字を読み取るために
◎esquisse13 (2013.4.18)
《我と汝・あいだ》
木村敏の人間の心理的時間感覚と精神病理からの示唆
「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」ー統合失調症的(分裂病的)
「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」ー躁鬱病的
「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」ー癲癇的
マルティン・ブーバーの二つの「根元語」:「我ー汝」「我ーそれ」
交換不可能な絶対性をもった一回性のノエシスとしての「あいだ」
自己の中に絶対の他を見、絶対の他において自己を見る
レヴィナス「主体の外へ」
「私」と「あなた」が真に出会うのは「絶対的他性」の働きかけが受動的に応答しあう場所
(絶対的他性の視線の無限遠点とその交錯)
◎esquisse14 (2013.4.19)
《「荘子の「物化」思想と世界の変容・ヘンシーン!》
『荘子』の「胡蝶の夢」の物化思想
自分と蝶とは融合するのではなくそれぞれが他へとの生成変化・変容するということ
「このわたし」が<他なるもの>に変容し、そこから「この世界」そのものも変容する
「鶏となって時を告げよ!」
ドゥルーズの「生成変化」の思想
模倣ではなく構成変化
ヘンシーン!するためのの技術と営為
自同性を自縄自縛的に担保している時空認識を「構成変化」させる
自由の哲学という生成変化・変容のための「縣解」装置
◎esquisse15 (2013.4.23)
《他者という観点から/非=場所としてのユートピアで奏でられる私と他者のポリフォニー》
「わかりあえないことから」
他者とは無限であり、<同>への還元を絶対的に拒絶する
ほんらいの意味での人間は《あるがままの人間》においては目覚めることができない
非=場所であるユートピアと倫理
自己の根底の絶対の他において汝の呼び声を聴き、汝の根底の絶対の他において私の呼び声を聞くこと
西田の思索は極めて数学に親和的であり、つねに幾何学的なイメージを以ってその思索を行った
(「円」のイメージ)
時が時の底に自己を抜けて行くことが円環となる
自己の底に自己を抜けていくこと
絶対無の場所で奏でられる私の汝を呼ばわる声と汝の私を呼ばわる声のポリフォニー
◎esquisse16 (2013.4.25)
《永遠の今と世界劇場》
「今」について考える
なぜ、今ここに私がいて、世界があるのか
絶対の無なるが故に絶対の有である
「今」という「点」において、「無」が「逆対応」的に展開している
永遠の今
「永遠」と重なる時間性を潜在的に含み込んでいる
「永劫回帰」=「絶対的な差異」の「反復」である「円環」の時間としての「第三の時間」
デヴィッド・ボームは、目に見える「明在系」に対し、その背後に「暗在系」があることを示唆
世界劇場論
舞台の<内>である「この世」にいるが同時に<外>にいる
◎esquisse-interlude 3 (2013.4.28)
《「奥行き」を観るとは、自分を檻から出すこと》
ミッシェル・オスロ監督『夜のとばりの物語』から
◎esquisse17 (2013.4.29)
《「奥行き」を見ることと「離見の見」》
私たちは演じているがそれに気づいていない
「観る場所」であり「観る人」である「見所」
仮面(ペルソナ)をつける「鏡の間」
「あの世」と「この世」をむすぶ「橋掛り」
「外=この世」からは見えない「無の暗闇」での視座としての「離見の見」
私たちはシテ・ワキ・見所の多重の視座を生きる
世界劇場に気づくこと気づかないこと
明るい世界では闇の世界に気づきにくい
アポロンとディオニュソスをともに生きる視座としての「離見の見」
◎esquisse-interlude 4 (2013.5.7)
《「ない」ことに気づくことからはじまる「奥行き」認識:「ウツ」と「ウツツ」の共鳴》
◎esquisse18 (2013.5.10)
《自己認識からみた多次元的な奥行き認識》
人間の基本的な構成要素「肉体」「エーテル体」「アストラル体」「自我」
エーテル体を認識するためのイマジネーション認識
アストラル体を認識するためのインスピレーション認識
自我を認識するためのイントゥイション認識
人間は動物に対しては90度、植物に対しては180度の位置関係にある
自我と物質は逆転した360度の関係にあるのではないか
イントゥイション認識としての自己認識
「奥行き」の多次元的なあり方を認識すること
◎esquisse19 (2013.5.19)
《目を啓く・耳を啓く》
みること、きくことにおいて
何重にも覆われているヴェールを剥がしていくこと
傾聴するという行為と、微細に見つめるという行為は、同じ
確かな一つの音の在処、確かな一つの光の在処へ
『きく』ことは、『みる』こと以上に霊的な行為である
耳を啓く
西洋と東洋における対極的な音意識
音の外化と音の内化
この2つの方向性をむすぶこと
新しい「聴覚的認識」へ
荘子「地籟」「人籟」「天籟」
形なきものにも形あるものにも、
また声なきものにも声あるものにも
その根底にある理念を見、聴くこと
◎esquisse 20 (2013.5.28)
《「今ここ」にいるということはどういうことなのか》
「永遠の今」
「今」を永遠にする
「ここ」を「無限」にする
「自己」および「他己」の「心身脱落」
「永遠の今」へ、プレからポストへのプロセス
「自由の哲学」と「永遠の今」へのプロセス
◎esquisse 21 (2013.6.5)
《私という現象》の多重構造〜《テクスト》のアナロジーとして〜
・「詩作品」としての「私」
・「私という現象」を重層的に意識する
・テキスト内的意識主体の多重構造
・地上における「私という現象」の多重構造
・私というペルソナの背後の高次世界にある「自己」の多重構造
・地上における多重構造と高次世界における多重構造の結び
・「私という詩作品」の「根源」にあるもの
・傀儡でありながら使い手でもある「私」の自覚と習熟
◎esquisse 22 (2013.6.10)
《大疑・疑問符そのものとなること》
・子どもの「なぜ」という問いとそれに答えるということ
・権威としての「答え」に自足してしまう大人
・逆に権威に対するアンチを「答え」の反対のものとしてしまう大人
・仏教の「四法印」
・「涅槃寂静」のイメージのもつパラドックス
・「私」がいないことで成立する「涅槃寂静」
・「答え」を求めるための問い
・「出来レース」としての問題と解答
・大疑・疑問符そのものとなること