視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.3.6

◎esquisse4   

  見えるものと見えないものとを総合する行為としての「見ること」
  眼は手のようにものをつかむ

(引用テクスト:前田英樹『絵画の二十世紀』NHKブックス/2004.4)
   見ることは、それ自体がすでに、見えるものと見えないものとを総合する行為になる。
  もちろん、見えないものは、林檎や坂道の向こう側だけではない。私が自分の目の前に
  座る男の顔や身体を見ることは、その男の見えない意図や感情や次の動作を読むことと、
  いやでも繋がっている。繋がっていなければ、私はその男を見たことにならない。
   こうしたことは、結局何を意味しているか。簡単に言えば、見ることは、見られるもの
  に対する私たちの身体の行動そのものだということを意味している。私たちの眼は、写真
  機のような独立した機械ではない。視覚器官は、中枢神経に連接し、中枢神経は末梢神経
  を通して身体の全域に絶え間なく連動の指令を出している。この全体が動いていなかった
  ら、眼という一器官は機能障害を起こしてしまう。見ることは、行動することであり、行
  動することは、この中枢的な身体が有用に働いて生き延びることである。したがって、見
  ることそれ自体、といった行為はあり得ないだろう。ただ見るために見る、そんな欲求を
  視覚器官は受け容れてはくれないだろう。(P.34-35)

◇note4
◎この「エスキス」では、視覚、つまり「見ること」のいわば「質」について考えようとしている。
そのために、いわゆる「現代絵画」の視点を参照したりもしている。
◎「現代絵画」にはなぜ「現代」という言葉がわざわざつけられているのだろう。
「現代音楽」にも「現代」がわざわざつかれれている。
おそらく「現代」という言葉で、聴くことや見ること、
そして演奏される音や描かれる絵そのものが問われているからだろうと思う。
◎私たちはみずからを問うように、絵画を見、音楽を聴く。いや、見ざるをえない。聴かざるを得ない。
単なる娯楽、気晴らし、エンタメといった要素もそこにはもちろんあり、
マーケットとして存在している商品としての作品といった性格もあるが、
ここではそういった視点に関してはとりあえず外しておく。
とはいえ、そうしたなかにも、もし私たちが聴くこと、見ることの「質」を高めようとするならば、
そこにはそれに応じた「問い」がでてこざるをえないだろう。
◎その「問い」を推し進めていくと、「絵画」とはなにか、
つまり「なぜ絵画があるのか」、そしてその行為があるのか、と問わざるをえない。
そして、その問いは、「見る」とはいったいどういうことかという問いに行き着くことになる。
◎この「エスキス」は「「視覚の奥行きへ向かう」ことを目的としている。
ふつう「見る」ということでイメージしている視覚はどんなに頑張っても
私たちにとっては二次元平面しかとらえることができないのだけれど(空間認識としては三次元ではあるが)、
そうした二次元の多層化・輻輳化とでもいえる空間認識ではなく、
そこに「見ること」の別次元を見ようというわけである。
◎そこででてくるのは、メルロ=ポンティである。上記の引用はその哲学を背景にしている。
メルロポンティは身体性を絡めてというか、身体ということを踏まえた視覚、
たとえば触覚と視覚の交叉などについて、セザンヌなどを引き合いにだしながら考察している。
つまり、上記の引用の「見ることは、見られるものに対する私たちの身体の行動そのものだ」というわけである。
◎シュタイナーも、見ることを単に光が眼に映じて・・・というふうにはとらえていない。
眼は対象をつかむというのである。私たちの手がなにかをつかむように、眼がそれをつかむ。
だから、見るという行為は対象と離れては存在しない。
対象をつかまなければ見ることはできないわけである。
だからそれを単なる「対象」ということはすでにできない。
◎見るということで、そこには「見えないもの」が折りたたまれているということもできるだろう。
そして、その折りたたまれているにもかかわらず、それに気付かないままでいるか、
それを展開し得るかということが、見ることの「質」の違いとなってあらわれる。
◎メルロ=ポンティは、「私の身体は、世界と同じ肉でできている」(『見えるものと見えないもの』)という。
これをぼくなりに勝手に敷衍して解釈すれば、「私の身体は世界が折りたたまれたものだ」ということになるだろうか。
だから、私は見ることで世界をこの身体に取り入れている。そうしないで見ることはできない。
少なくとも自覚的になればそれを探求せざるをえなくなる。
◎そしてそこにあらたな問いが生まれる。「それでは、その『世界』とはいったい何だろう」という問いである。
それは「世界はなぜあるのだろう」「世界はなぜそのように現れているのだろう」という問いでもある。
それは「私はどこからどこへ行くのだろう」という問いを内包しているともいえる問いである。

*参照テキスト
前田英樹『絵画の二十世紀』NHKブックス
『メルロ=ポンティ・コレクション』 (ちくま学芸文庫/翻訳:中山 元)
メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(みすず書房)
メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房)