視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.3.25

◎esquisse7   

《鏡像について》

・鏡像
・始原的空間と幾何学的空間における身体の同一性と差異性
・ラカンの鏡像段階説
・他者、そして世界は鏡像である
・私も鏡像である
・私はどこにいるのか
・「か・が・み」のなかの「我」

◇note7
◎鏡に左右逆転したように映って見えること等については、だれしもいちどは鏡の前にいる自分と鏡に映っている像を比べながら、実際のところどうなのかを考えてみたことがあるのではないだろうか。そして、考えれば考えるほど、あるいは感じれば感じるほどに、なにかがねじれていくような不思議な感じになっていく・・・。

◎そこで今回は「鏡像」について考えながら、なぜ私たちは鏡という二次元平面に映っている像に「奥行き」を感じるのか、そしてその鏡像を「見る」ということはどういうことなのかについての問いを共有していければと思う。

◎下記引用にもあるように、鏡像問題は、運動における始原的空間と知覚における幾何学的空間という二つの身体の同一性と差異性ゆえに起こるともいえる。

◎そのことを理解するためには、前後左右上下という方向性を幾何学的に理解される三次元空間のXYZの3つの軸としてではなく、身体が固有に持つ空間の方向性として考えた上で、鏡像で逆転して見える方向性を他者と向かい合う方向としての左右として理解する必要がある。

◎私たちの視線、つまり見る主観としての自己は、私たちが生まれ育った身体経験の成立とともに他者を含みこんでいる。と同時に、見ることー見られることを習得することで、いわば間(相互)主観的な幾何学的空間性を身につけている。
◎したがって、わたしたちの見ている空間は、今見ていると思っているもので構成されている幾何学的三次元空間やそれが平面に射影されたものであるというだけではなく、そうした「他者のまなざし」によって成りたっている「奥行き」という見えないものが支えているといえる。

◎ちなみに、ラカンの鏡像段階説では、 前エディプス期(生後6ヶ月から18ヶ月)において、幼児が鏡に映る自分の像を「自己」として認めることで自己の同一性が得られるとされる。その鏡像こそが幼児に自分の身体の直観的な形を与え、幼児は自分の身体の全身像を想像的に先取りする。そしてそれが同時に自分の身体から周囲までの諸関係も与える。つまり、私というのは、鏡に映る他者のことであり、また自らの環境世界そのもののことでもあるということになる。

◎私たちはそのように、他者に自分の鏡像を重ね合わせることで、自分を自分だと認識するようになる。つまり、自分が自分であるということは、他者に反射され鏡像化された存在であるということである。その他者はまずは母親であり、やがてそれが外界全体における諸関係すべてに適用されることになる。

◎ここで注意が必要なのは、鏡に映った自己像と他者も鏡像関係にあるということではないかと思う。他者はそのまま自分ではない。その他者は鏡の前にいる自分と重ね合わせることができるが、その他者は自分ではない。そして、鏡の前にいる自分は直接見ることはできない。

◎そこにさまざまなねじれが生じている。私たちは、自分が自分であることを成立させるために、他者を必要とした。その他者の位置に自分を置くことで自己像を形成した。しかし、自分を見ることができるのは鏡に映った自分でしかない。その鏡に映った自分を自分だとして人はねじれたまま成長する。しかし、それはそのまま他者ではない。

◎そこで問いが生まれる。私たちが見ていると思っている他者や空間そのものがある種の鏡像にほかならないのではないかという問いである。

◎そうだとすれば、鏡の前にいるようにこの世界に存在している私たちは、ほんとうはどこにいるといえるのだろうか。つまり、世界がすべて鏡像だとしたら、その鏡像世界を見ている私はいったいどこからそれを見ているのだろうかということである。そして、ねじれた認識でみずからを形成した自己をいわばもう一度ねじって鏡の前の自らに気づくためにはどうすればいいのかと。

◎鏡(か・が・み)は、「か・み(神)」のなかに「が(我)」がある。「我は我ありである」という「我」。
◎世界は他者は、そしてこの世界に存在していると思っている自分も、鏡のなかの「奥行き」のようなところに存在しているのではないだろうか。そうであるならば、その鏡の前にいる「我」の位置に自らを置くためにはどうすればよいのだろうか。


◇引用テキスト

(船木亨『<見ること>の哲学/鏡像と奥行』世界思想社 2001.12.25/P.388)
A) 鏡は、世界の光景のなかにあって、わたしの身体と一定の関係のもとにある特殊な空間を出現させる。鏡に映し出された身体空間は、空間一般とは決定的に異なって、<見ること>そのもの、ひいれは空間に対してわたしの身体がもっている意義を体現している。(…)身体とは、世界へのわれわれの投錨でありーー混沌を封じ込めたとされる中国古代の鏡の神話が示しているようにーー世界が混沌ではなく秩序をもったものであることを実践的に実現するものであるからこそ、物体のように鏡に映る単なる一対象ではなく、鏡と対になって鏡の不思議な現象を作り出すのである。
 他方、身体の鏡像に違和感をもたらしていたものは、始原的空間と幾何学空間の両義的な関係である。「両義的」とは、二重の現れかたをしながらも、どちらかの側から双方を、あるいは、いずれをも超えた別の原理で双方を説明することもできないようなありかたのことである。運動において自明な始原的空間と、知覚において見出された幾何学的空間を重ね合わせることはできない。こうした差異、わたしの身体と身体の鏡像との差異は、紛れもないものである。(…)鏡像の左右逆転は、始原的空間と幾何学的空間の調停の結果であるが、こうした二つの身体のあいだの同一性と差異性の経験こそ、鏡のまえで感じとられている当のものだったのである。(P.76-77)

B) <見る>ということに不可欠に含まれているのは、それによって見られるものが奥行(立体性と距離)のもとにあるということであり、奥行とは、以上をふまえると、複数の主観、複数の視点のあいだで与えられる光景の意味である。<見られるもの>が奥行のもとにあるということは、<見られるもの>がそれを見る主観の外部にあって世界の光景として見られるということであり、権利上すべての他者によって見られうるものであるということである。(…)
 「わたしの見る光景が世界のひとつの射影としてしか与えられない」と述べることは、「複数の他者の視点、わたしの複数の視点もまた、それぞれにひとつの射影として世界の光景を捉える」と述べることでもある。<見ること>において、<見えないもの>は、他者がその場所から側面を見ることができるもの、および他者がわたしの場所に立ったなら見るかもしれぬものの総体である。それらは、<見られるもの>における潜在性である。だが、それらは、他者によって側面として、またわたし自身によって別なしかたで<見られるもの>でもありうるわけで、<見ること>において克服されてしまうのではなく、<見えないもの>としれ(人形浄瑠璃のように)みずから姿を隠すことによって<見ること>を実現させているのである。
 他方、<見ること>の能動性は、受動的に<見えるもの>に対して実現されるということであった。(…)では、<見えるもの>は何かというと、それは他者とともに何かを見るたびにたえず学ばれなおされてきたものであり(…)それは特定の他者のものというよりは、歴史を通じ、無数の他者によって見られたものが相互主観的に沈殿してきたものであるに違いない。
 結局、自分と他者との向かい合いが引き起こすもろもろのことの集積が、このようにして奥行を実現するとともに、始原的空間を知覚的分節の歴史と幾何学の生成へと引き渡してくれたのであり、その奥行の体制によって、わたしのまなざしは光景のなかを、光景にさそわれるままに彷徨することができるようになっている。(P.154-155)