視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.4.2

◎esquisse9   

《ホワイトヘッドの「こと」的世界観と時間の非連続的連続》

・有機体の哲学
・「こと」的世界観
・アクチュアルエンティティ(活動的存在)
・抱握=摩尼宝珠・インドラの網・時空的な縁起
・エポック的時間=刹那滅(時間の非連続的連続)
・プロセスが実在である
・純粋持続、エーテル空間、永遠の今/
・永続的存在者と絶対無

◇note9

◎ホワイトヘッドを読み返している(正直言って読みやすいとはいえないのだけれど)。ホワイトヘッドについてはじめて興味をもったのは、松岡正剛の影響もあるが、その後はどちらかというと仏教や西田幾多郎との関係からだった。ホワイトヘッドと西田幾多郎をくらべながら比較的よく読んでいたのは1990年代の前半の頃だったろうか。訳者であり研究者の山本誠作さんの著作を参考にしていた。そういえば、その頃はシュタイナーを集中的に読み始めていた頃でもある。それ以降も、何年かおきにホワイトヘッドのことは気になりながらもそのまま手つかずの状態になっていたところがある。今回の「エスキス」のながれのなかで、西田幾多郎を久しぶりに見直してみたことから、ホワイトヘッドとベルクソン、メルロポンティ、ドゥルーズなどとの関係が気になってきたので、かなり乱暴になってしまいそうだけれど、ホワイトヘッドについて少し。

◎今回の「エスキス」は「視覚の奥行きへ向かう」ということをめぐる論考である。要するに、「私たちは何を見ているのか」「何が見えているのか」「何が見えていないのか」「何を見る必要があるのか」といった問いにかかわっている。その問いは、結局のところ、私たちの世界観・宇宙観に関連してくる。「私たちはどのように世界を見ているのか」という問いである。ホワイトヘッドの主要著作『過程と実在』は、サブタイトルに「コスモロジーへの試論」とあるように、そうした世界の観方についての幅広い視点を提供してくれている。その視点に基づいて、今私たちが見ようとしていないもの、見る必要があるだろうものについて考えていくガイドとしたい。

◎ホワイトヘッドにとっては「有機体」というのは、ふつう私たちが「生きている」と思っているものだけにかぎらない。素粒子、原子、分子などのいわば無機的なものから動物、人間、そして神まで、あらゆる存在をスタティックな「もの」としてでではなく、いってみれば「こと」「出来事」としての「活動的存在(アクチュアルエンティティ)」としてとらえ、全宇宙をそれらの有機的な関連性のなかでとらえようとした。ホワイトヘッドはもともと数学者であり理論物理学者だったがその基礎のうえに、相対性理論や量子力学やベルクソンの「純粋持続」などの影響も受けながら、全宇宙を有機的に理解するための哲学の構築を試みだのだともいえるだろうか。
◎ぼくはおそらくホワイトヘッドを理解しているというよりは、積極的誤読とでもいえる強引な理解になるだろうが、その「有機体の哲学」をこのようにとらえていたりする。つまり、時空的にとらえられた仏教的な「縁起」(摩尼宝珠・インドラの網)と「刹那滅」の視点で(ホワイトヘッドではそれぞれ「抱握」「エポック的時間」が相当する)、「現実的存在(アクチュアルエンティティ)」のいわば「被限定即能限定的」な自己創造プロセスとして展開しているという宇宙観である。西田幾多郎との関連性でいえば、その述語的な「場所」の考え方。「自己の中に絶対の他を見、絶対の他において自己を見る」(ホワイトヘッドはあらゆるものが場として主体=アクチュアルエンティティ(活動的存在)となりえるため、「自己」はあらゆる主体でもある)とでもいえる過程(プロセス)そのものを実在としてとらえているということもできる。ちなみに、ホワイトヘッドは「場」を「延長的連続体」と呼んでいる。

◎ホワイトヘッドにとって「もの」は存在しない。すべては「こと」「出来事」である。そして無数の「出来事」「こと」が無限に関係しあって世界は生起している。しかし、その生起している時間が「流れている」とはいえない。生起している「いま・ここ」は、仏教的にいえば「刹那滅」としても表現できるような「エポック的時間」、非連続的連続である。そしてあるエポックが成立するためには、潜在的な空間(過去/延長連続体)から現れてくる別の「出来事」「こと」との関係性のなかで「永遠的対象」とされる必要がある。その無数の非連続的連続によって、時間が流れているように見えている。

◎言葉をかえていえば(かなりいいかげんな説明だけれど)、潜在的な空間(エーテル空間でもあるだろう延長連続体)である映画のフィルムがあって、そこから投影されスクリーンに映し出されるシーン(「出来事」「こと」)がある。一画面一画面のシーンは「非連続」であるが、別のシーンとの関係性によってそれらのシーンが連続として見える。ひとつの「エポック」が成立するためには、そうした相互的な関係性が必要となる。しかし、潜在的な空間そのものは、ある意味、永遠の今ともいえる純粋持続であって、そこに時間が存在しているとはいえない。

◎しかし、ホワイトヘッドを読みながら、若干の違和感を持ったところもあり、それがホワイトヘッドと西田幾多郎との観点の根本的な相違としてもでているように思えたのでそこらへんを少し。おそらく、ホワイトヘッドにとって「神」は「永続的、永遠的な存在者」であって「絶対無」ではない。西田にとっては有即無であり無即有であるわけだが、ホワイトヘッドの視点にそれを見るにはかなり無理があるように思える。ホワイトヘッドは、固定的な存在者を認めずすべてを「こと」「プロセス」として理解するわけだが、それは「実在」以外の何者でもないというところがある。「実在」をどのように理解するかということにもよるのであるが、ひとまずその有的な視点と無的な視点との違いはおく必要があるのではないだろうか。ホワイトヘッドにとってはおそらく「永遠の今」は実在そのものであり、西田にとってそれは「絶対無」だということもいえる。言葉やその背景にある文化・思想の違いだといえばいえるのだけれど、実在と絶対無とのあいだには虚数的なねじれがあるように思える。存在と存在者を関係性の網の目のダイナミクスとしてとらえるか、ある意味、存在(絶対無)と存在者を逆対応的な絶対矛盾的自己同一としてとらえるかという違い。(参考までに、『過程と実在』から「神」と「世界」との関係についての記述を引用しておくことにする)。

◇参考テキストからの引用

A)中村昇『ホワイトヘッドの哲学』講談社選書メチエ390/2007.6.10 (P.171-174)
 ホワイトヘッドは、全宇宙をつねにダイナミックに流動しつづけるものとみなす。したがって、特定の個物を、全体の固定された部分として、とりだすなどということは決してない。つねに動きつづけている状態(「過程」process)こそが、この世界の真の姿(「実在」reality)なのだから。そのような世界においては、独我論的な中心などというものは、そもそも存在しない。中心があるとすれば、あらゆる出来事の生起した場こそが中心であり、そこを軸にして、一刹那もとどまることのない森羅万象が紡ぎ出されていく。ホワイトヘッドは、そのような仮の中心を、すべて「主体」と考えた。したがって、かれの宇宙では、あらゆるものが「主体」となりうるのである。(…)
 <いま・ここ>が、ホワイトヘッドがいうように、宇宙全体に偏在し、それでもなお時間が流れているとすれば、どうなるのか。あまねく存在している無限の「端的な現在」において、刻々と「二つの決して相容れないリアリティのあいだの断絶」の「跳躍」が、生じているということになるだろうか。
 ベルクソンの「純粋持続」から出発し、仏教の「刹那滅」という概念を経て、ホワイトヘッドの「エポック的時間」へとたどりつくことによって、ある時間のありさまが見えてきた。ここで、いまだ「時間」と呼ばれているものは、どのようなものだろうか。最後に到達したこの世界の状態において、そもそも「時間が流れている」といえるのだろうか。(…)
 エポックとは、延長連続体という潜在的な空間(過去)から、創造的に突出してくる現在だ。それは、ひとつの活動的存在であり、唯一無二の<それ>である。しかし、この活動的存在は、瞬く間に、ほかの活動的存在にとっての対象となり、過去化される。つまり、つぎに発生する活動的存在によって抱握され、あっという間に延長連続体のなかに埋没するのだ。それは、とりもなおさず永遠的対象となることでもある。
 永遠的対象にならなければ、活動的存在は、この世界に存在しない。それはつまり、ひとつのエポックが、「エポック」として成立するためには、どうしても永遠的対象にならなければならない、ということと同じだ。<それ>が「それとして」把握されなければならない。ホワイトヘッドの考える宇宙では、この繰り返しこそ、時間の流れということになるだろう。<いま・ここ・わたし>(である森羅万象)は、「エポック」である。つまりは、ひとつの「活動的存在」だ。だが、<これ>は、そのままのかたちではあらわれない。それが、つぎの「活動的存在」によって対象化されるとき、はじめて「活動的存在」として登場するのである。

B)中村昇『ホワイトヘッドの哲学』講談社選書メチエ390/2007.6.10 (P.42-61)
 あらゆる「もの」は、実は「こと」なのである。こういう「こと」的なあり方をしているものこそ、ホワイトヘッドの「出来事」なのだ。「出来事」とは、「もの」的な状態を徹底して排除し、完全に「こと」として成りたつ。われわれのまわりは「こと」によって充満しているのだから、この世界は「出来事」によってできあがっているといえるだろう。もちろん「われわれ」も、「こと」である。この世界は、主観も客観も混在しているアマルガムのようなものになるだろう。境界が曖昧な、無数の「こと」によって、この世界はつくられているのだ。(・・・)
 ホワイトヘッドの中期哲学において登場した「出来事」は「こと」的なものであり、時間も空間も「出来事」からでてくる。「出来事」こそが、この世界の最も具体的な事態なのだ。(・・・)
 存在や位置のあり方は、「抱握」によって決まる。要するに、「抱握」という関係の網の目だけが、まずあることになるだろう。(・・・)
 出来事は抱握というはたらきをしている運動体だ。ほかのさまざまな出来事と関連しあっている流動する過程そのものなのである。(・・・)
 実は「もの」は存在しない。あらゆる「もの」は、「こと」的なあり方で、ほかの全ての「こと」と相互浸透しているのだから。個別の時間のなかにいる無数の存在(全てのものは運動しているのだから)が、ほかのおおくの存在と、さまざまなかかわりをもって流動し続けていることになる。このような錯綜した状態こそ、われわれの世界の真の姿なのだ。

C)ホワイトヘッド『過程と実在〈2〉コスモロジーへの試論』(みすず書房 1983.6) (P.513)
 あらゆる点で、神と世界は、それらの過程に関しては、相互に逆に進行する。神は、原始的には一である、すなわち神は、多くの可能的な形相の関連性という原始的統一であり、過程において、神は、結果的諸多岐性を獲得する。そのことはその原始的性格がそれ自身の統一性へと併合されるということである。世界は、原始的には多である、すなわち物的有限性をもった多くの現実的諸生起であり、過程において、世界は、結果的統一性を獲得する。それは新しい生起であり、原始的性格の多岐性に併合されるのである。したがって神は、世界が多にして一とみなされるべきであるのとは逆の意味で、一にして多とみなさるべきである。宇宙の主題ーーそれは全宗教の基礎であるがーーは、世界のダイナミックな努力が恒久的な統一性となる物語であり、また世界の努力の多岐性の併合による完成化という目的を達成する静的な威厳のある神のヴィジョンの物語なのである。