風のトポスノート824
スピリチュアルなナルシシズム
2012.10.6



   エゴイズムの中にはあらゆる種類の「プライド」が入っています。たとえば自分の
  肉体の美しさに関するプライド、それはナルシシズム(自己陶酔)というものです。
  また、自分はほかの人より上だという優越感のプライド、それを否定されるとひどく
  感情を害します。また知識があって、自分がほかの人より頭がよいというプライド、
  これは前の2つより恐ろしいものです。なぜなら盲目になり、事実が見えなくなるか
  らです。しかしこの3つを合わせたものよりも恐ろしい4番目のプライドがあります。
  これにおちいると、何百年もの長い間、そこから出られないことがあります。それは、
  「スピリチュアルなナルシシズム」です。スピリチュアルな勉強をしている人たちは、
  誰でも最初は謙虚な心で始めます。しかし何年か経つと、修練によっていろいろな能
  力がついてきて。ヒーリングをしたり、人に教えたりすると、人が集まってきて、そ
  の人たちの憧れを受けます。すると自分が何か特別な存在になったように勘違いして
  しまい、その人の成長はそこで止まってしまうのです。これは真理の探求者によく起
  こることがあるので、特に気をつけなくてはいけません。このエゴイズムは、昔から
  高いレベルの聖者たちがいちばん恐れていたことです。なぜならどんなに成長しても、
  この罠に陥る危険性がいつでもあるからです。
 (ハリー・ランバート『私は何のために生きているのか?』
  ナチュラルスピリット/2012.9.30発行/P.224-225)

先日、facebookでもご紹介しているが、
ダスカロスから学んだハリー・ランバート(ハラランボス)が、
「エソテリック・ティーチング」の内容を日本で講義したものが一冊の本になっている。

■ハリー・ランバート『私は何のために生きているのか?』(ナチュラルスピリット)

ダスカロスのティーチングは、福音書のヨハネの系統にあるということで、
そのエソテリックな内容は、ぼくの理解するかぎりでは、
シュタイナーの神秘学を学ぶ際、それを補完するものとして、
大変すぐれた適切な内容だと思われる。

補完するというのは、シュタイナーの神秘学は、
基本的に「学問(科学)」的な指向性をもっているため、
私たちの魂の態度や日々の生活態度に浸透する基本的なところが、
ともすれば抜け落ちてしまいがちになるからだ。
「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」のような著作はあって、
その内容を正しく作用させれば同様の示唆は受けられる可能性はあるのだが、
ひとつまちがえば、それは「高次の感覚を得る」ための方法論としてしか、
作用し得なくなってしまうこともないとはいえない。

その点、「ダスカロス」の「エソテリック・ティーチング」は、
たとえば、真性のエゴとエゴイズムを明確に分け、
エゴイズムをいかにして克服するかということに焦点を置いているがゆえに、
そうした危険性を避けるためのさまざまな示唆に富んでいる。

たとえば、上記の引用の部分は、自らのエゴイズムの中にある
さまざまなプライドについて注意を喚起している。
仏教的に言えば、「増上慢」についてである。
自分が偉いと思い始めると、自分が中心だから、
まわりがみえなくなる、人の声が聞けなくなる。
「私は偉い」「私は特別である」「私が癒す」「私が教える」・・・となる。

程度問題はあるが、学ぶことをおざなりにして、
人に教え始めるひとというのは、往々にしてそうなりがちである。
たとえ、私は教えることによって同時に学んでいる・・・とか思っていても、
事はそんなに簡単には済ませられないことも多い。
シュタイナーが40歳までは神秘学の教師をしてはならないと示唆していたことも、
この観点からも考えておかなければならないだろう。
もちろん、40歳を過ぎたらOKだということではない。
それは最低ラインであって、教えるということに関する最低限の自覚的態度が
明確に身についていないとき、おそらく事態は致命的な方向に行ってしまいかねない。
自分の成長が止まるだけならまだしも、まわりのひとたちも巻き込んでしまいかねないのだ。

そのためにも、今自分が日常生活において
どのような態度をとりえているのかという視点をガイドに、
しっかりとした自己意識をもった魂の態度を常に貫いておくことが不可欠である。
そして少しでも、「私は偉い」「私は特別である」「私が癒す」「私が教える」・・・
というようなところが見えたら、すぐさまそれを意識的にフィードバックして、
自分の態度を外から見ることができるような静かな目線で自らに指摘しなければならない。
「おまえは、みずからを人の上に置いていないか」と。
「ひとのためにやっているのだ、とことさらに思い込もうとしてはいないか」と。
そこにある「私が」「私は」ということの根っこにあるものに
常に意識的であることが必要不可欠になる。

さて、ちなみに、「ダスカロス」については、以下の邦訳がある。
・メッセンジャー
 ストロヴォロスの賢者への道
・太陽の秘儀
 偉大なるヒーラー“神の癒し” メッセンジャー
・メッセンジャー永遠の炎
・エソテリック・ティーチング
 キリストの内なる智恵 秘儀的な教え
・エソテリック・プラクティス
 キリストが遺した瞑想法とエクササイズ
・キリストのたとえ話

それから、かなり前になるが、トポスのホームページに、
「神秘学ノート/「ダスカロス」シリーズ」1~3」としてノートしてあるので、参考までに。

https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/sinpigaku/strovolos.html
https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/sinpigaku/strovolos2.html
https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/sinpigaku/strovolos3.html