神秘学ノート

「ダスカロス」シリーズ-2


2-1●キリアコス・C・マルキデス:メッセンジャー第 II集

2-2●物質への理解

2-3●研究室は私たち自身

2-4●精神病

2-5●脅迫観念とエレメンタル

2-6●スピリチュアルな成長

2-7●<私は>の分析

2-8●正しい思考による浄化

 

 

 

ダスカロス・ノート2-1

キリアコス・C・マルキデス:メッセンジャー第 II集


1999.11.25

 

■キリアコス・C・マルキデス

 「メッセンジャー第II集 太陽の秘儀/偉大なるヒーラー<神の癒し>」

 (鈴木真佐子訳/太陽出版/1999.11.18)

 以前、本棚及びノートで比較的詳しくその内容をご紹介したことのある「メッセンジャー」の第II集。「ストロヴォロスの賢者」と呼ばれる、キプロス島のダスカロスをアメリカのメイン大学の社会学教授である著者が紹介しているもの。

 「はじめに」でもあるように、著者は、社会学者であるということから、「今回も前回と同じ視野と方法論をもって研究に臨んだ。私は現象学的なアプローチを採った。つまり、私自身が理論に基づいて介入することをなるべく避けて、ダスカロスに自分の世界と知識を紹介してもらうように努めたということである」としていているのだけれど、最初の章でも述べられているように、「実証主義」に色濃く染められている社会学という学問にとって、こうした「ヒーラー」のようなタイプの現象を扱うのが困難であるというところが本書のまたひとつの魅力になっていると思われる。

 「私は科学的物質主義に対して居心地の悪さをずっと感じていたが、これは現代の知的生活における悲劇であり、おそらくは避けられない代償であるとも受けとめていた。」というように、安易に「現代の知的生活」を放棄しないで、それを克服していくということが重要なのではないかと思う。

 ダスカロスは、そうした著者をそのまま受け入れている。

 ダスカロスは疑いを持ったままの私を受け入れ、疑い深いトーマスと呼んで私をからかうのであった。彼は私の猜疑心を受け入れ、時には勧めたりもした。「何でも鵜呑みにしてはいけないよ。真っ赤に燃える疑問符になってすべてを試し、そして常に自己修養で得たものを指針にするのだ」と私に一度助言してくれたことがある。

 これは、シュタイナーが「薔薇十字会の神智学」で述べていたような

「噛みつくような疑念」の必要性ということと通じていると思う。現代人にとって、安易な信仰や盲信などは認識を阻害してしまうことになる。

 このダスカロスは、ヒーラーとしてキプロスで活動していて、活動内容としてはシュタイナーのような在り方をとっていないのだけれど、たとえばキリスト認識などに関しても、ほとんど同じなのではないかと思える。しかも、とても認識的であるということも共通している。活動内容やその適用範囲の違いなどから、使っている用語は少し異なっているのだけれど、読んでいてほとんど違和感はない。むしろ、別の角度からシュタイナーの神秘学を見せてくれているようなそういう感じが強い。

 本書を読みながらあらためて思ったのは、人の「思い」がいかに創造的かということである。前回の第I集のノートでも「エレメンタル」という想念の生み出すものについてはふれたことがあるのだけれど、人が思ったことは基本的に「エレメンタル」として実体化してしまう。そしてそれは自分に返ってきたりもし、それが転生を超えて、カルマとして働いたりもする。

 仏教などでも、心の毒ということで、怒りやむさぼりや愚かさ、慢心などを持たないようにという教えがあるのだけれど、そういう思いはすべて実体化してしまい、毒として働いてしまうことになるように、自分の思うことについていかに自覚的かということがきわめて重要であるということが本書を読みながら実感される。

 人は、一瞬一瞬の「思い」によって、自分を創造しているのだということに気づくときこの宇宙がいかに「自由」に満ちているか、そして、だからこそ、「愛」そのものであるかということに気づくこともできるのではないだろうか。

 さて、本書の装丁とタイトルはこの内容の素晴らしさに反比例してちょっといかがわしい感じになってしまっているのが残念だ。原書のタイトルは「太陽へのオマージュ」というものなのだけれど、なぜこういうセンスのない邦題にしてしまったのだろうか(^^;)。くれぐれも、この外見にとらわれないように・・・。

 ちなみに、第III集が来春に刊行されるということらしい。今からとても楽しみだ。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-2

物質への理解


1999.11.27

 

 ダスカロスは、自分が住み、働く世界が自然の一部であると説明した。彼の科学を人びとは誤って形而上学と呼んでいるが、そのようなものは存在しないと彼は主張した。

 「すべては物理だ。水素が見えないからといって、それが存在していないわけではない。私たちが取り扱うのは、五感を超えた、もっと幅の広い現実であるが、研究していこうと思えば、十分に感知できるものなのだ。だから、私たちは自分たちを真理の探究者と呼ぶ。現代の科学者は自分を物質主義者だと考えているが、彼らは物質が何であるか本当に分かっているのだろうか。彼らの物質の理解は限られている。なぜかというと、彼らは濃密な物質のレベルでしか働きかけをしていないのだ。私たちが濃密な物質と呼ぶのは、私たちが働きかけをしている向こう側にも物質があるからだ。空気は透明だけれど物質である。エーテルも従来の科学によって発見されたが、愚かにも捨て去られた。しかし、それは私たちにとって電気と同じように存在していて、セラピーにも使われているのだ」(…)

「自分たちを物質主義者と呼ぶ人たちと私たちとの違いはこうだ。私たちの実験室の方が広い、ということなんだ」とダスカロスはにっこりして言った。

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P23-24)

 五感でとらえられる現象を扱えば形而下学、いわば物理学、そうでなければ形而上学といわれたりもする。つまり、フィジカルとメタ・フィジカル。そして、形而上学とレッテルをはられてしまうと、それは科学的ではないということになってしまいがちである。しかしその境目は誰が決めているのだろうか。その違いがはたして確かにあるのだろうかと問う必要があるように思う。

 その問いのはじめはたとえば、あたりまえのこんなこと。フィジカルとメタフィジカルというふうに決めるということは、フィジカルなのだろうか、メタフィジカルなのだろうか、そういうふうに考えたり、判断したりすること。それはいわゆる物質を扱うように五感で明確にとらえられるのだろうか。そう考えてみると、物理だと規定するのは、物理的でないことがわかる。

 私たちは外界を知覚する。しかしそれだけであれば、そこにはなにも生まれない。その知覚内容にある概念を結びつける思考の働きが不可欠なのだ。つまり、花がそこにあり、それに<花>という概念を結びつけることで、私たちは、「花が咲いている」ということがわかる。もし<花>という概念をまったく持っていなかったとしたらどうだろうか。ただそれを見ているだけだとしたら、「花が咲いている」とはいえないだろう。

 そのように、物質と呼ばれるものも、それに何らの概念をあたえることができず、思考がそこに働かないとしたら、その物質は何でもないものとしか現れない。それについて何もいうことができないのだ。だからそれを理解するために「理」を与え、それが「物理」となる。

 そこで考えてみなければならないのは、同じ対象に向かい合うとしても、その対象にどのような概念を結びつけるのか、またその結びつける思考の在り方はどのようであるか、によって、そこに現れてくる現象そのものが異なったものとなってくるということだ。

 だから物質主義者というのは、そうした営為に対して、いかに抽象的なものを前提としているのかということができるし、言葉をかえていえば、物質を物質だと思っていることに無自覚な人、物質を無前提で盲信している人なのだということもできる。

 さて、通常、物理実験というと、対象を限り、観察条件を限ることで、ある法則や結果を導き出そうとするものだといえる。しかし観察条件を限るといっても、その条件はきわめて「物質的」なので、それ以外の要素が捨象されてしまう可能性は高いのではないかと思う。また、「実験室」はとても狭いし、その「実験」はさまざまな檻のなかでなされている状態であるということもできる。しかし人間は、狭い「実験室」のなかに閉じこめられてもいないし、多く「檻」のなかには押し込められてもいない。もちろん、自分で好んで「檻」のなかに自足しようとする人はいるのだけれど。

 ここに花が咲いている。その豊かさをどのように味わうか。きれいな花だと思う、花の色が好きだと思う、自分も咲かせたいと思う、分類してみる、花として咲いている現象そのものについて考える、色として現れるのはいったい何だろうと思う、そこに咲いている不思議について考えてみる・・・・それとも、それに気付きさえしないで無関心に通り過ぎてしまうか。それを選択する自由が人間にはある。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-3

研究室は私たち自身


1999.11.27

 

「何回も言ったが、また言おう。私が言ったからといって鵜呑みにしないでもらいたい。手を取り合って、二人で共に探究してみよう。それが私のやり方だ。私は何も信じていないし、ただそれが書かれているからと、何かを信じたり、このマスターがこう言ったからとか、あのマスターがこう言ったからと言って、何かを信じることはない。自分自身で確かめるのだ」

 ダスカロスは、彼と弟子たちは信仰者ではなく、真理の探究者であり、そのために、真実の本質をできるだけ自由に調べていくのだと言った。「私たちのサークルでは、<真実はあなたを自由にする>というキリストの言葉を真剣に受けとめているのだよ」

 私はここで、一言はさんだ。

「ダスカレ、実証の問題は重要です。(…)自分たちが観察していることが空想ではなく、本当であることを実証するために、他におなじような研究をしている科学者たちと確認する必要があります」(…)

「本物のマスターや神秘家やグルたちはこう言うでしょう。<私たちと同じ視野を持って世界を見たいと思ったら、厳しい修行をしなければならない。(…)そして、私が教えた通り一歩一歩進んで行けば、こういった成果、こういった経験を得るだろう>と。でもそのような特殊な訓練を受けていないような人はその成果を獲得することは絶対ないでしょう。(…)従来の科学者と違って、神秘家の方法は経験的なものであって、研究室の中での実験的なものとは違います」

「なかなか良い」と、ダスカロスは私の譬えが気に入ったようで声を強めて言った。

「しかしキリアコ、そのような厳しい修行を積んでいない人たちでも、マスターたちの行いを観察して、類似した結論を出すことはできるんだ。私たちのサークルになぜこれだけ多くの医者がいると思うかね。彼らはヒーリングや様々なことを目撃してきたのだ。前に私が言ったように、私たちのアプローチも科学的ではあるが、私たちの研究室は普通の研究室よりずっと広がりがあるのだ。それは、研究室が私たち自身だからだ。濃密な物質レベルの肉体も含まれる。そしてあなたがキプロス人、アメリカ人、イギリス人、もしくは日本人であっても、自己という実験室の中で同じ手順、同じ方式を適用していくと、同じ相対的な真実に辿り着くのだ。そうやって、自分たちが探究し、発見した方式がキリストやブッダという偉大なマスターたちが見究めたものと同じものだと分かった時ほど嬉しいものはない」(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P37-38)

 「真実はあなたを自由にする」・・・あなたを自由にしないならば「真実」とはいえないだろう。自分を抜きにしてどこか抽象的な場所に置き、外的対象へとアプローチすることでは、その「真実」に近づくことはできない。

 「実証」ということ。均質化され抽象化された「物質」なるものを限定的に対象とし、それを「研究室」のなかでだれでもが検証できるようにすること。そうした19世紀的な在り方は、理論的にはある部分克服されようとしているものの、実際のところ、現代の科学や学問は、「実証主義」で固められているように見える。自然科学は、「技術」のめざましい進展によって、それ以外の学問も、その自然科学+技術の威勢にあやかるかたちで、均質化され抽象化された「実証主義」から自由になっているとはいえないのではないか。

 もちろん、だれにでも検証可能だということは重要なことなのだけれども、いったい、その「だれにでも」の「だれ」とはいったい「だれ」なのだろうか。科学においては、検証可能性という観点への反省ということもあって、トーマス・クーンによって「パラダイム」ということがかつて言われたりもした。おそらくその「検証」をする認識態度そのものの一種の流行のようなものだといえる。その流行のなかで検証することが、時代に沿った重要な科学的態度になるのだ。もちろん、それはそんなに単純にいえることでもなく、「パラダイム」だといったところで、何を言ったことにもならないということは意識的していなければならないのだけれど、やはり「だれにでも」の「だれ」へ向かう視線は必要なのではないかと思う。

 でなければ、そこで「検証」されたとされることは、ともすれば、「あなたを」むしろ」「不自由」にしてしまうことになる。それは、「真実」という仮面をかぶりながら、「あなた」を縛るからだ。もし、なにかを確かめたいと思うならば、抽象的な「だれ」の一人になるのではなく、確かめる本人になる必要があるのではないだろうか。もし自分で確かめないままに、なにかに従ってしまうとしたら、あなたは「真理の探究者」ではなく、「信仰者」になってしまう。科学と称するものも、その意味では、多く「信仰」以外のものではなくなってしまう。

 「あなた」は抽象的な人間ではなく、かけがえのない「あなた」以外の人間ではありえない。その「あなた」が、自分を抽象化することなく、外的な「真実」とされることを鵜呑みにするのではなく、自分自身を「研究室」とすることが必要なのではないかと思う。そのとき、あなたは抽象的な存在ではなくなる。そしてそこではじめて「実証」とういうことが抽象化から免れることになり、そこで見出された「真実はあなたを自由にする」のだといえるのではないだろうか。

 そして、研究室が自分自身である限りにおいて、そこには基本的な道徳性が見失われることは少ないのではないだろうか。自分自身といいながら、集団的な規範にすりかえないかぎりにおいてではあるが・・・。

 科学が、ともすれば核開発や遺伝子操作、臓器移植などなどにおいて暴走しがちであるのは、まさにそこに自分自身がいなくなっているためだと思う。そこにいるのは「実証」できたと信じる、だれでもない「だれも」でしかない。それはいったい「だれ」なのだろう。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-4

精神病


1999.12.5

 

「精神病が何であるか理解するためには、習慣がどうやってつくられていくか、見ていく必要がある。何かが潜在意識に刷り込まれ(インプリントされ)ると、それは意識の表面に上がり、しかもくり返し起ころうとする。それは私たちの視点からすれえば、人間はエレメンタルを投影して、それがいずれ源に戻るということだ。そして、エレメンタルは人格のエーテル・ダブルからエネルギーを吸収してより強くなって行く。これらの習慣や執念は潜在的にサイキック体やノエティック体に刷り込まれて行く。このようなエレメンタルの波動がとても強くなると、脳に害を及ぼすことがある。これが精神病や分裂症として時々現れることになるんだ。サイコ・ノエティック体の波動が静まれば、脳も落ち着いて、精神病の患者も一般の人のように行動して思考することができる。たとえば精神病院で、症状の重い患者にもはっきりと物事が分かる時期があることに気付いているかね。潜在意識に乱れが再び出て来るまでだが。もしある人が死んで、サイキック界で私たちがこの人に出会うとすると、まだ精神病に罹っているのだろうか。いいや。乱れた波動はサイコ・ノエティック体を含む、自己意識を持つ人格の一部を形成しているのになぜ、と思うかもしれない。この場合、人格全体が激しく波動するが、これは肉体という檻の外で起きる現象だ。脳には病気は現れない。激しい波動自体が精神異常をもたらすというわけではないのだ。精神異常は、肉体の脳と太陽神経叢がサイコ・ノエティック体の中の状態を表現できない時に起きるのだ。精神異常の患者が発作を起こす前に腹痛を感じたり、しゃがみ込んで吐いてしまったりするのを見たことがあるかな。患者のバランスを崩す波動は太陽神経叢から始まることがあるんだ」「では、精神異常の人はみな、肉体の脳に何らかの損傷があるというのですか」とイアコヴォスは質問した。

「いや。必ずしもそうではない。肉体である脳にはこのような強い、集中的な波動が流せないということだけだ」

「この状態は、どのような人間にも起こり得ますね」と私は言い加えた。

「そうだ。怒りが度を超して、どもりはじめる人がどのくらいいるかな。肉体の脳は機能が停止してしまい、理性を失うのだ。強い感情があり余ったために、脳溢血や心臓麻痺を起こす人がどのくらいいると思うかね」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P50-51)

 私たちは、「思い」によってエレメンタルを作り出し、そしてその自分のつくりだしたエレメンタルに影響される。そして、そうしたエレメンタルの影響を「脳」が処理できないときに、「精神異常」とされる現象が起こってしまう。ふつうの場合は見えないもの、聞こえないものが見えたり聞こえたりするのもそうしたエレメンタルからの影響を受けているのだといえる。

 そうした現象は決して、ただの妄想だとかいうことで片付けることはできない。そうしたエレメンタルを知覚しする能力があれば、そうした「精神病」によって生じる現象が知覚できる。「精神分析家医」には、そうしたエレメンタルを知覚し、処理する能力が求められるのだが、多くの場合そういう能力のないままに、むしろクライアントのエレメンタルの影響下に置かれてしまうことになりがちだという。

 また、ある意味では、だれにでもそうした「精神異常」は小さなかたちであれ生じているのだといえる。自分のつくりだしたエレメンタルの影響を脳が処理できず、感情などが暴走してしまっているときなどもそうだ。だから、自分の「思い」にはつねに注意深くある必要がある。

 もし、強い否定的な「思い」を持ってしまったときには、それとは逆のベクトルをもった「思い」を強くもちさきにつくりだしたエレメンタルと中和することができる。つまり、否定的な思いそのものにこだわると、むしろそこでつくりだされたエレメンタルの影響下にはいってしまうので、そうではなくて、こだわりを捨てて、逆の性質をもった思いを持ことが必要なのだといえる。

 本来、「反省」的な方法は、その言葉どおり、「反」体の性質で中和していくような、そうした方法論でもあるのだけれど、ともすれば、「反省」そのものが、いわば「くよくよ」となって、否定的なエレメンタルを強化してしまうことになるわけである。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-5

脅迫観念とエレメンタル


1999.12.17

 

「(…)真理の探究者は絶えず自分の想念や感情を徹底して見つめ、検査するべきだ。これ一種の精神分析ではないだろうか。邪悪なエレメンタルたちと戦う時に必要だと思うんだが。それらが潜在意識に居ついてしまわないように、そうやって自己分析を体系付けて行う必要があるんだ」

「精神分析家がこの点について異議があると思わないけれど、エレメンタルと呼ばないほうがいいでしょうね」

「強迫観念と彼らは呼ぶでしょうね」とイアコヴォスが私のあとに付け加えた。

「何と呼んでも良いだろう。私たちにとって重要なのは、その力だ。それがどこにあり、どのような損害を与えるのか、そしてそれをどうやって消滅させるか、だ。しかし<エレメンタル>という言葉を使うことによって、私たちはそれを具体的なものに変容させ、それをつかみ、観察することを可能とするのだ。このような私たちは、彼らの本質に形と力を与える。強迫観念というレベルを貼っても、分析家はそれを分類したり、研究したりできないだろう。人は脅迫観念によって、酒を飲んだり、自慰行為を行ったり、威張り散らしたり、喧嘩をしたり、妻に暴力を振るったりするかもしれない。これを全部強迫観念のカテゴリーに収めることはできるかもしれない。しかし、エレメンタルとして見ると、これらは互いに全然、似ても似つかない。霊視能力者はそれぞれのエレメンタルが異なった形を持っていることに気が付くし、扱い方にもみんな違った方略が必要となる。現代の精神分析家は、患者を苦しめているエレメンタルの本質を知らずに、本当に治療ができるのだろうか。私は、セラピストが暗闇で働くのではなく、ルールと原因が分かることによって人の潜在意識に深く侵入でき、問題の原因を除去できる霊視能力者でなくてはならないと思う。従来の精神科医が治癒にあまり成功していないのは、そういったことがある。それから、もうちょっと言っておきたいことがある。従来の精神科医が気が付いていないのは、精神科医が患者の強迫観念と思っているものが医師の潜在意識にも徐々に刷り込まれていく可能性があるということだ。精神科医の中でまともな人間が何人いると思うかね。患者より多く問題を抱えている医師たちが大勢いるよ」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P71-72)

 「強迫観念」は非常に具体的なものとして働く。なぜ「酒を飲んだり、自慰行為を行ったり、威張り散らしたり、喧嘩をしたり、妻に暴力を振るったり」するのかを抽象的にとらえてしまうと、その働きもその原因もとらえることはできないだろうし、その「強迫観念」への働きかけを有効なものとすることはできないだろう。

 人の「思い」は、そしてそれによってつくりだされる「エレメンタル」は非常に具体的な存在であり、その具体的な存在をとらえないかぎり、その「エレメンタル」がその人に働き返しているという現実の種々相をありありととらえることはできないように思う。

 ある種のことに非常にこだわっていたり心配していたりして、そのこだわりや心配がいつも頭から去らないでいるようなことは、だれにでもあることだろうと思う。そのこだわりや心配は、非常に具体的なものとしてあって、それを一般化・抽象化してとらえることはできない。それはまるで具体的な存在になって自分を襲っているかのようである。そのこだわりや心配を去るために、私たちはいったいどうすることが可能なのだろうか。

 通常は、それらの思いの原因になっているものを解決に導くことで、こだわりや心配の種を取り除くということが処方箋となる。しかし、最初の原因は比較的単純であったとしても、それがもとで非常な固定観念を生んでしまい、もう最初の原因を取り除くことだけでは処方箋にならないこともある。すでにその固定観念というエレメンタルが実体化してしまって、そのエレメンタルを呼吸するようにその人は生きていたりする。

 仏教などの反省では、そうしたエレメンタルを見据え分析し、それを八正道のようなかたちで実践することで、それらの原因になっているモンスターのようなものを解消するということが行われているのではないかと思う。心の三毒とかいうこともいうが、それらの解毒剤のようなものだ。

 だから、エレメンタルに対する重要な働きかけのためには、常に深い自己認識が必要であるということがいえるように思う。そしてそれは非常に具体的なものとしてとらえられなければならない。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-6

スピリチュアルな成長


1999.12.21

 

「自分の偶像は少しずつ壊されていくものなんでしょうか。」

「まったく意識せずに自分の偶像を壊し、時空間の中に生きるために、それをマスクのように使う者たちもいる。少なくとも彼らは、マスクを超えたところに、真の自分がいるということを知っている。このような現実を意識できるようになると、周りの人間たちのために役立つ必要性に気づいていくんだ。神秘家をつくるのは超能力や霊能力ではなく、スピリチュアルな成長だ。霊能力を訓練して、霊媒師を育てるのは簡単だ。でも、もしスピリチュアルな成長がなかったとしたらどうだろう。霊能力の獲得はスピリチュアルな成長と平行でなければ、黒魔術に陥ってしまうかもしれないのだ」

「人間として、現世の様々な事柄に執らわれることはないんですか」とステファノスが追求した。

「時間・空間の中に住むのだから、当然だろう。しかし、私にはもっと奥まで見えるんだ。私が愛以外のものによって動機づけられることはない。それがとても人間的な愛である時もあるがね。私に影響を与えられるものは愛以外、ないだろう。そして、その愛という時、それは個人生活の中のものにとどまらず、敵と思われるような相手も含んだ愛だ。私の場合、永遠の時間が私に憎しみを持つことを不可能にした。憎もうと思っても、もうそれはできない。なぜかというと、私は自分が誰であるか知っているし、自分が何でないか知っている」

「<自分は誰か>に対して、答えがあると言っているのですか」と、ステファノスが少し混乱したような様子で聞いた。

「もちろん、答えはある。私は自分が誰であるか知っている。しかし、あなたにそれを理解させる言葉はない。私とは名前でも、肩書きでもない」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P257)

 偶像をつくってはいけないという教えがある。けれど、それが「教え」である以上、そのこと自体が偶像になりうる。その偶像が偶像であることを認識できないかぎり、それは偶像である。

 霊能力というのは確実に存在する。実験室で証明されていないといっても、その存在は否定できない。むずかしいのは、むしろその霊能力の質であり、その用い方である。

 刃物を持つときには、その使い方を覚える必要がある。少なくとも、こうすれば危険だということだけは知っておかなければならない。刃物の場合であれば、それを料理に使う場合には役に立つ使い方で、人を殺傷する場合には、好ましい使い方でないことがあきらかなのだけれど、霊能力の場合は、その質についての判断がむずかしい。それは、刃物を使うという目に見えるあり方と霊能力の行使のような目に見えないあり方との違いだ。

 けれど、動機によって判断することは可能だ。霊能力が自己顕示によるものかそうではないか、御利益的なあり方であるのかそうではないか。もちろん、多く霊能力を求めるのは自己顕示のためであり、多く霊能力が求められるのは御利益のためである。そしてその動機は決して「愛」ではない。

 だれかを憎むことは、愛の裏返しであるという。けれどおそらく愛ー憎という対立における愛は、その「愛」ではない。愛ー憎を超えたところにある「愛」が問題になる。愛ー憎という対立において現れるものはまさに偶像である。だから、愛ー憎において霊能力を用いることは黒魔術になる。

 スピリチュアルな成長なくして霊能力を開発してしまうということは、偶像の合わせ鏡のなかで、みずからを迷路に導いてしまうということになる。スピリチュアルな成長というのは、おそらく、合わせ鏡に映った偶像に目を奪われるのではなく、それが映っているもとのものに目を向けること。それが自己認識であり世界認識である。そのときおそらく、<自分は誰か>ということがわかるのだろう。そして、それが「名前でも、肩書きでもない」ということも。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-7

<私は>の分析


1999.12.24

 

「ダスカレ、<自分は知っている>という言葉を使うと、自分の偶像を強める作用があるのではないですか」

「いや、ない、本当に知っている場合、マスクとは関係がないからね]

「でも、それが可能なのは、自分が<知っている>という状態になった時で、それは今の私たちには知ることはできないですよね。<私は知らない>ということからスタートっを切ったほうが危険を避けられるのではないかと思うんですが」

「うん、それでいいよ。<私は永遠に知ることがないだろう>よりも、まず、<私は知らないけれど、いつか知ることができると信じている>の方がいいだろう。私は太陽が特定の方向から昇ることを知っている。なぜかというと、前の日にもそれを見たからだ。今は暗いが、太陽がまた昇ることに関して私は忍耐と確信を持てる。知るということは経験的な確実性があるということだ」

「私にとって、自分を知るということはそういった分類ではないんです。私は(I am)というだけで十分です」

「それは十分ではないんだ。その<私は>を分析する必要があるんだ。これが自己分析の目的だ。」

「そのような決定権は誰にあるんですか」とステファノスは聞いた。

「自分自身が決めるんだ。自分自身が真理の探究者になるんだ」

「実際、そうではないのに、<私は>の後に何か誉め言葉を加える、というのは真実ではないでしょう。そのような人は大勢いて、何かうさん臭いですよね。私はそのように感じるんです」

(…)

「ちょっと前にダスカレは偶像に反対だと言いましたよね。では、分類することにも反対ですよね」とステファノスは言った。

「いや、分類することによって、少しずつ、偶像を壊す力を手に入れるんだ。偶像にはいろいろある。善良な人間がいて、さらにもっと善良な人間がいて、という風にね。偶像の中にも様々な状態があり、いずれ知識の風に吹き飛ばされて行く部分もあるんだ。私が言いたいことが伝わったかな。キリアコに昔言ったことがあるが、私が梯子を昇って、上まで辿り着いたとする。私には梯子の一段ずつが必要だったんだ。ある程度のところまで行ったからといって、梯子を壊す気はないんだ。他にそれを使う必要がある者が出てくるだろう。私はもっと低い段にいる仲間が昇ってくるのが嬉しい。その努力、その真剣さと目的意識を高く評価したいんだ」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P260)

 この世界はマーヤである。そしてこの私はマーヤであり、マーヤにとらわれながら生きている。まずその気づきから出発する必要がある。

 私は私である、私は私であるである、というのは比較的たやすい。しかし、その私は私であるであるへの道は遠く果てしない。その道は、一歩一歩歩かれねばならない。

 ひとつ仮面を外せば、仮面の下の顔がそこに現れてくる。そしてその顔が自分のほんとうの顔だと思えてくる。ああ、今まで自分の顔だったものは、仮面だったのだと。

 しかししばらくたつと、その顔もまた仮面のように思えてくる。そうしてその仮面の下のほんとうの顔が見えてくる。やっと自分のほんとうの顔が見えてきた、となんとか苦闘しながら仮面を外し、自分の顔をのぞき込み、あれこれと思い悩みながらも、自分を見据えることができたと思う。

 しかし、それもまた自己探求のプロセスのひとつにすぎず、またそれも仮面であることに気づく・・・・・。そうした無限とも思える自己への探求。そのプロセスにおいて生み出されるものこそが、私たちの自己への探求における宝物なのだと思う。だから、すでに通過したからといって、そのプロセスが無意味になることはない。場合によっては、そのプロセスがだれかの一里塚になることもあるだろう。

 さて、今まで自分が外してきた仮面、壊してきた偶像、歩いてきた道のことは、ある程度よく見えてくるところがあるが、それをひとに説明するのはとほうもなく難しい。

 あるこだわりを持っていて、その思いこみを去ることができたとする。そのとき味わえた開放感は思い荷物を降ろしたようなものなのだけれど、そのこだわりを今ももっている人に対して、「あなたのそのこだわりはただの思いこみなのだよ」といくら力説したところで、おそらくはこだわりをなくすことは難しい。それは、自分で気づき格闘することによってしかできないことなのだと思う。人の代わりに食べ物を味わっても、人が味わったことにはならないようなもの。

 さて、<私>は誰なのだろう。私は私であるであるへの道は、果てしないが、その途中に見える無限の景観を楽しむことにしよう。

 

 

 

ダスカロス・ノート2-8

正しい思考による浄化


1999.12.24

 

「私たちはみな、同じ法則に従っている。自分たちが偉大な科学者であっても、哲学者や清掃夫であっても同じだ。たとえば、私たちはみんな肉体を持ち、ある体温になると汗をかきはじめる。体を何日か洗わないでいると、臭いがしてくる。こういう時、もっとレベルの高い要素、この場合は水が肉体を綺麗にするために必要となる。すべての人間の体はこれが必要なんだ。そして私たちのサイキック体にも同じようにオーソロギスモス(正しい思考)によって浄化されることが必要なのだ」

 ダスカロスは声を上げた。

「私たちは利己的な欲求から出る低いレベルの波動を年中、浄化しなくてはならない。肉体の場合は、もっと高次の要素の水で。そして、サイキック体はそれより高い力を持つ正しい思考だ。真理の探究者は<自分の欲望が生まれた瞬間からそれをチェックする>という約束を交わしている。これは自分たちのサイキック体の健康を維持するために一番必要なことなんだ。真理の探究者でない一般の人は、反復の法則によって様々な世俗的な欲望を潜在意識の内に取り込んでしまう。真理の探究者で行う訓練は、自己分析や正しい思考を使ってサイキック体を浄化することだ。抑制のない欲望の結果として現れる精神状態の臭いは、風呂に入らない肉体よりっずっとひどいものなんだ。(…)

 正しい思考とは、ノエティック体やサイキック体の成熟過程に類似している。それは想念と感情の成熟化なのだ。人間の正しい思考はもっと高い意識のレベルから見ると、非合理に見えることが多い。同様に、高いレベルのオーソロギスモス(正しい思考)は、普通の人間意識のレベルから見ると非合理に見えたりもする」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集・太陽の秘儀」太陽出版/P275-276)

 矛盾を生きるということはむずかしい。それはまず矛盾に対する意識化が必要となる。さらにその矛盾に対して開き直るのではなく、その矛盾を統合できるものを見出さなければならない。

 低いレベルの波動と高いレベルの波動というのがある。肉体は低次で、精神は高次だともいわれる。神秘主義やスピリチュアリズムなどでは、そうした低次と高次というのを一面的に階層化してしまう傾向にある。しかしそういう一面性はとても危険なものでもある。高次のものへの指向が、低次もののの否定につながってくるからだ。だから、禁欲ということが認識の欠如したまま聖化されたりもする。もし低次のものがただ否定されるだけなのだとしたら、この生そのものが否定されるだけの無意味なものになってしまうだろう。この世はまさに牢獄でしかなく、私たちはただの囚人でしかない。そして、悟りというのは、この世の否定、つまり自殺のススメになってしまう。

 なぜ「浄化」されなければならないようなものを私たちはもっているのだろう。そのことはとても非合理のように思える。動物は、浄化されなければならないものを持ち得ない。もし浄化されなければならないものがあったとしても、それを浄化するための要素をもっていない。しかし、人間は自分を浄化するということをその課題として持つ。その自覚がないとしても、その課題は否定できないだろう。人間は、自分を浄化するための要素をもっているからだ。その意味で、人間は矛盾そのものを体現しているといえる。

 肉体の汚れは、目に見えるものだから、それを清めるというのはわかりやすい。生命体が不全になっても、それは病気というかたちででたときに、それが治療されなければならないという課題として現れる。けれど、感情的な側面が汚れてきたときのことは、わかりにくい。目に見えるものではないし、内的なものだからである。そしてそれは、自覚というかたちでしかそれに働きかけることはできない。しかし自覚の出来ないばあい、その課題そのものがその人には存在していないということになってしまう。

 「思考」というと、「頭で考える」と思っている人がいる。それは、「思考」のことがわからないからだといえるのだけれど、「思考」が働いていないときには、その人にとっては「頭で考える」ことでしかない。そこにも矛盾が露呈してくる。

 人はあらゆる意味で矛盾を生きる存在であるといえる。だから、その矛盾を超えていこうとする力が必要になる。しかしそのためには、まず自分のなかの矛盾に気づくところからはじめる必要があるように思う。そして、「正しい思考」の存在が自覚される必要がある。逆巻く海のなかに、波に洗われながらも存在している大陸のようなものがあるのだということをしっかり見るということが大切なのではないかと思う。  


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