神秘学ノート

「ダスカロス」シリーズ-3


(2001.8.25-2001.10.3)

以前もご紹介したことのある「メッセンジャー」の第III集が
足かけ2年ぶりにやっと出ました。
もう出ないのかもしれないと思っていたので喜んでいます。
 
「ストロヴォロスの賢者」と呼ばれる、キプロス島のダスカロスを
アメリカのメイン大学の社会学教授である著者が紹介しているものです。
 
今回のものもとても素晴らしい内容ですし、
キリスト認識に関してシュタイナーにもふれられていたりするので、
前回までに引き続き、ノートを書いてみることにしました。
 
■キリアコス・C・マルキデス
 「メッセンジャー第III集 メッセンジャー/永遠の炎」 
 (鈴木真佐子訳/太陽出版/2001.8.20)

3-1●オントピーシス
3-2●意識を高める手助け
3-3●プロセスとしての五芒星
3-4●自由と痛み
3-5●霊性に応じた知
3-6●予言
3-7●予言と預言
3-8●可能性と自己限定の間で
3-9●カルマの克服
3-10●道
3-11●愛としての思考
3-12●サイコ・ノエティック体の完成

 

 

 

ダスカロス・ノート3-1

オントピーシス


2001.8.25

 
         「ある仏教の一派の考えで一般に受け入れられているものでは、意識の究極状
        態は自我が無の状態になること、つまり自己たるものがトータルな神の中に巻き
        込まれ、希薄化された状態になるということなんだ。この状態では、個人として
        のわれわれは存在しなくなるというわけだ。この考え方は、西洋の俗界の多くの
        インテリ層にアピールしたんだ。彼らの不可知論にとっては、この概念のほうが、
        個々の意識は不滅であるという考え方よりも、うまく噛み合う。…」
        「<かくして、死が訪れると、個人は消滅し、一つの雫が海に落ちて消えてしま
        うということなのかもしれない。しかし同時に、自らの本質は何であったのかを
        人は悟るようになるのである。雫そのものは、単に雫であるばかりか海でもある
        ことに気づくのである。>これだと、<死後はどうなるのか?>という質問に対
        して、この著者の答えはおそらく<すべてであり、無である>という風になるん
        だと思う。
         もし、ここをダスカロスが読んだら、彼はきっと笑い転げてしまうよ。死によ
        って悟りが得られるのであれば、英知への確実な道は自殺ということになる、と
        言うだろうと思うよ」
        (…)
         「なぜ私たちは肉体をもって生まれてくるの?」
         「…ダスカロスとコスタスは、肉体化して現われる目的は絶対のワンネス(統
        一性)の中で個性をなくすのではなく、そのユニークさを発達させることだと教
        えているんだ。二極に分離した世界へ降りて来る前は、低レベルの世界の体験も
        なく、顕著な個性もなく、われわれは神(gods)であった。皆、似たり寄ったりで、
        時空を超えて大天使的存在として生きていたんだ。スピリット・エゴ、つまりプ
        ニューマに様々な体験の機会を与えるために、時空が存在する二極分離の低レベ
        ルの世界がつくられた。そしてスピリット・エゴは、この体験を通して最終的に
        オントピーシスに辿り着くわけだ。…
         ダスカロスとコスタスによれば、この大いなる真理は、イエスによって放蕩息
        子の例え話の中で美しく表現されているということだ。オントピーシスは、放蕩
        息子が時空の世界で試練や苦難の体験を重ねたあとに父の宮殿へ戻った状態のこ
        とである」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P51-53)
 
仏陀は人は生まれ変わるどうかという質問に対しては
沈黙を守ったということがいわれていたりする。
実際、仏教の諸派では、生まれ変わりが当然のように言われていたり、
また逆にほとんど唯物論のような考え方があったりする。
 
特にかなり知に偏った仏教では(もちろん中途半端な知なのだけれど)
無とか空とかいう言葉を使って難解な論理を構築し、
結局のところ何を言っているのかわからないようなことになってしまっている。
「死が訪れると、個人は消滅し、一つの雫が海に落ちて消えてしまう」
とかいうのはよく使われる比喩で、わかったようなわからないような、
でもムード的に少しは救われたような気にもなったりする。
 
極論になると、人を構成している物質素材が死後に
生まれてくる人の肉体の一部となる可能性を示唆したりもすることになる。
しかし、そういう考え方は、結局、
論理的にいえば、自殺の勧めでしかなくなる。
 
もっとも良心的な方は、「不可知論」的な立場になるのだろうけれど、
だからこそ慣習としての葬式のような儀式を
ただルーティーン的にこなしてしまうだけになってしまうことになる。
 
では、なぜ人は地上に生まれてくるのか。
そして自殺を促進しなくてもすむような英知の獲得が
こうして生きていることにあるとするならば、
それが意味あるものでなければならないだろう。
 
ダスカロスは、「現在の人格は、死の直前の人生で持っていたレベルの知性や
知識や自覚をすべて携えて、そのまま続けていく」。
そして、「その現在の人格が次元に適応してくると霊的進化をさらに進めるために、
より知識を獲得する機会が与えられる」のだと言う。
けれど重要なのは「最初のステップはこの物質界で取らなければならないというのが
条件だ」ということらしい。
死後になったら、現在の無明が解決するわけではないわけである。
 
「オントピーシス」の重要性もそこにあるように思う。
ある意味で、今この地上の生で種を蒔き、
ある程度成長させるプロセスを踏んでいることによって、
死後の霊的進化が規定されてしまうことがあるということでもある。
だから、今ここで種を蒔く作業をまったくしないでいたとしたら、
死後そこで種を蒔くことが困難になってくる。
「最初のステップ」がないとしたら、その次を踏み出せないわけである。
 
そういう意味でも、シュタイナーの精神科学は、
その現代的な総合性という意味でも、
かなり進んだステップとして非常に重要なものなのではないかと思う。
なぜシュタイナーのいうことが非常に難しく困難なのかというと、
それが単なる宗教的ドグマの押し売りでも、
「この薬を飲めば効く」というような結果主義の産物でもなく、
その認識のプロセスそのものが霊的進化につながっていくからなのだろう。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-2

意識を高める手助け


2001.8.28

 
        「人生で本当に重要なのは、手を広げて人々を治すことよりも、むしろ人びとが
        物事に気づき、意識を高めて行けるように手伝ってあげることなんだよ。これが
        私たちの真の使命だからね。この物質界でヒーリングが起こるはずなら、それは
        遅かれ早かれ起こることなんだ。われわれの介入がない場合、少し時間がかかる
        かもしれないけどね。いずれにせよ、最終的にヒーリングを行なっているのは聖
        霊であって、われわれじゃないんだよ。しかし、われわれができることがあるん
        だ。それは、他の人びとが無知から抜け出て、意識を持って自己発見の旅路につ
        く、その手助けをすることなんだよ。そもそもこのためにこそ、われわれは皆人
        間として二極(陰陽)性の世界へ降りて来ているんだからね。だから真理の探求
        者としてのわれわれの使命は、自分も含め、皆が無意識と無知の自失状態から目
        覚めやすくなるように、その手助けをすることなんだよ」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P120)
 
なんらかの課題があるとしよう。
それを解決することが難しい。
そんなとき、誰かからアドバイスをもらうこともできるかもしれない。
 
その課題を自分では解決できないときでも、
それを解決するための答えをもらうことで、
その課題は解決されることになる、と、
とりあえずはいうことができるかもしれない。
結果として解決されたのだから、それでいいということでもある。
 
しかし、あらたにそれと似た課題が生じたとする。
そのとき、それを自分で解決できればいいのだけれど、
その解決へと向かう認識プロセスが辿れていないばあい、
それはまた自分では解決できないかもしれず。
ひょっとしたら、また答えをもらおうとするかもしれない。
そしてそれが癖になってしまうかもしれない。
そうなると、重要なのは結果であって、
課題そのものの持つ意味は失われてしまうことになる。
 
光を見るためには、
自分のなかに太陽がなければならないという。
太陽があるということはどういうことだろう。
それは見るための能力だということもできる。
しかし、光を見ようとするならば、
少なくとも目を閉ざしていてはならないだろう。
しっかり目を開いて見ようとしなければならない。
 
手術で見るための器官を得た人は、
たとえ光を見ることができるようになっても、
見ることそのものを学ぶために非常な努力が必要になるという。
このことは、見るということが受動的なものではなく、
そのことそのものが創造性に満ちた行為なのだということを教えてくれる。
 
課題を自ら解決しようとする認識行為も
その創造性に似ているといえないだろうか。
そしてそれは、答えだけを得ることはできないということを意味している。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-3

プロセスとしての五芒星


2001.8.30

 
        「どのように五芒星は私たちを保護してくれるのですか?」(…)
        「困難な状況にある時はいつでも、輝く真っ白な光の五芒星で自分が包み込まれ
        ているのを頭の中で描いてみるといいよ」(…)
        「つまり、日常生活の中でサイコノエティックな危険に遭うことだ。たとえば、
        人びとの攻撃的な思いとか悪感情に君が直面したとか、同様にサイコノエティッ
        クの次元から侵入して来るものがある時などだ」
        「コスタ、もっと詳しくどのように五芒星を組み立てるのか教えてもらえますか」
        (…)
        「必ず、一番上の角が君の頭の上にあるようにするんだよ」(…)
        「そして、二つの水平の角は、君が十字架の水平部のように腕を伸ばした時、両
        腕を包み込んでいなくてはならず、その二つの角の頂点はそれぞれ君の両手の端
        にあるはずだ。五芒星の残りの二角は開いた両脚を包んでいなければならず、そ
        の頂点は両足の端に位置しなければならないんだ」(…)
        「五芒星はサイキック界のシンボルなんだ。また、通常の五感から五つの超感覚
        へと人間意識が移行するシンボルでもあるんだ」
        (…)
        「さて、君たちの右腕の頂点からスタートするよ。まずその頂点から真っすぐ線
        を描いて、右足の後方に下ろしてくるように。いいね?」(…)
        「足の後ろのその点から、心の中で真っすぐその線を左手の端まで持ってくるよ
        うに。そして、左手の端から、その線を右腕の端まで動かす。その時、両腕は開
        き伸ばされた状態となっているんだ。
         右腕の端から左足の端まで線を引き、それから最初にスタートした頂点につな
        がるようにその線をずっと頭の上まで持ってくるんだ。これで君たちの五芒星が
        完成したことになる」(…)
        「頭の中でいちいち線を描くことが必要なんですか?五芒星の中に自分が入って
        いるのをイメージするだけでは、十分ではないのですか?」と私は尋ねた。
        「いや、違うんだ。五芒星の防御力はそれを描いている過程で強化されるんだ。
        中に君がいるのを見るだけでは十分ではないんだよ。繰り返しこのお守りのエレ
        メンタルを描くことで、それにエネルギーを与えるんだ。実際、それは君がつく
        り出しているエレメンタルだからね。繰り返すことでそれを強化し、意味あるも
        のにするんだ。一度このように確立されると、君はそれに心を集中しさえすれば
        いい。そうすると、いかなる時でも、君を守るために準備万端となるわけだ」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P107-110)
 
陰陽道にセーマン、ドーマンという呪符がある。
セーマンというのは、阿倍晴明から、
ドーマンは蘆屋道満からきているらしい。
 
五芒星の形がセーマンであり、陰陽五行の象徴。
ドーマンはいわゆる九字であり、
横5本、縦4本の棒を引いて書かれ、
九星九宮を著わしている。
 
上記の引用では、五芒星が魔除けに効力があるとしているが、
この五芒星という形には洋の東西を問わず普遍性があるようである。
 
ちなみに、逆五芒星については、ダスカロスは、
ルシファーのシンボルだとしているが、
そのシンボルもこの五芒星で包み込めば、
その影響力を失うということである。
 
ここでノートしたいのは、魔除けのことではなく、
形の持つ力は、スタティック(静的)な形ではなく、
「それを描いている過程」こそが
重要であるということである。
 
プロセスとしての形。
それは、まさにシュタイナーの線描芸術としてのフォルメンに他ならない。
 
フォルメンを描くことについては、
晩成書房から邦訳出版されている
ルドルフ・クッツリ「フォルメンを描くI・II」があり、
「形態描写とは対極にある、動きの軌跡としての線」について
その実際が惑星封印を描くところまで詳述されている。
 
形がプロセスであるということはどういうことだろう。
五芒星が描かれる過程において力を持つということは、
形を時間性においてとらえるということだともいえる。
逆にいえば、時間性を失った形は力を持ちにくい。
 
ところで音楽は物質的な意味での形態を持たないが、
それが時間のなかで奏でられるプロセスそのものにおいて、
ある種の力をもつことになる。
また、音がその振動によって形を描いていくということは
よく指摘されるところでもある。
 
クレーの絵は音楽との関係で論じられることも多いが、
クレーの絵に描かれている形は
プロセスそのものが重要になっているのだといえる。
 
ところで、宇宙進化も7つのサイクルで説明されることが多いが、
その7つのサイクルとしての展開を
プロセスとしての形態でとらえてみると面白いかもしれない。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-4

自由と痛み


2001.9.1

 
        「時々、自問するんだ。どうして神は人間にこれほどの自由を与え、信じられな
        いような苦しみを人間同士で与えることを許しているんだろう、とね」
        「あなたは、その説明ができないとでも言うのですか?」と私が尋ねた。
        「いや、論理的にはできるよ。でも私は人間だから、感情的にその説明を受け入
        れるのが難しい。結局、人間は神だからね。誰も人間から、その人の神聖な属性
        である自由というものを奪うことができない、ということだ」
        「しかし、あなたは、なぜ人間は他の人間に対してこれほどの痛みを与え、悪を
        もって苦しめることができるような能力が備わっているのかと、疑問に思ってい
        るのですね?」と私はさらに質問した。
        「そうだ。なぜ人間にそんな権利があるのか?これは、未来永劫終わることのな
        い争いの連続だよ。つまり俺はお前を倒し、お前は俺を倒すーー私はお前を殺し、
        お前は俺を殺すという具合に、それはもうきりがない。もちろん、私はカルマの
        法則を受け入れてはいる。つまり人間は、誰一人として受けるはずのない苦しみ
        は受けないわけだ。しかし一般に人は、なぜ自分が苦しんでいるのか、その背後
        にある理由を知ることができないんだよ。しかし、人が霊的に進化し、ある段階
        に到達すると、現実を見抜くことができる立場に立つ。その時、初めて人はその
        苦しみの理由が分かるようになるというわけだ。カルマの法則は絶対に正しいが、
        それが痛ましいものであることに変わりはない」(…)
        「さて、君はこんな疑問が浮かぶかもしれない。<では神はその痛みを止めるた
        ために、ある時点で介入しないのか?>でも、神はそれよりも遙かにすぐれたこ
        とをされたんだよ。つまり、痛みを思い出せないように人間をつくられたんだ。
        これは実に重要な意味を持ち、まさに、ここに神の慈悲が働いているわけだ。私
        はこの神の慈悲を神の介入という風に理解しているんだ。神が介入されて、痛み
        のアナムネーシス(記憶)を一人ひとりの人から折り去っておられるんだ。神は
        出来事や個人の体験については一人ひとりが記憶できるようになされたけれど、
        その出来事において体験した痛みだけは別扱いなんだ。これは、肉体の痛みだけ
        ではなく、サイキック体やノエティック体の痛みについてもいえることなんだ。
        これはね、神の慈悲の重要な特質なんだ」(…)
        「じゃあ、ここで再び質問しよう、神は、われわれが痛みを感じるたびに、ご自
        身も痛みを感じられているだろうか?君はどう思うかね?」(…)
        「神はたぶん、痛みを感じられるに違いありません。すべてが神ご自身の中にあ
        るのですから」
        「そうなんだ。しかし、神の痛みはわれわれのものと同じではない。それはちょ
        うど、子供を針でチクッと突き刺すのに似ているんだよ。その時、子供は大変な
        苦悩を経験して泣きわめくよね。でも、大人にはその同じ針がほとんど感じられ
        ない。これは神の創造された世界での大変重要な原理なんだ」
        「たぶん、これがあなたが私に言われたことーーキリスト・ロゴスは人類の痛み
        の重荷を自らに課し、それを無にすることができる。それはまた、人間がお互い
        の重荷を背負い合うことができるようにしているのですね。それでカルマの大部
        分は解消されて、ほんのわずかな部分の痛みのみが実際に体験されるだけなんで
        すね」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P144-146)
 
長い長い箸を互いにもって、
自分で自分の口に運ぶことができないような状況で、
しかもそれでしか食べ物をとることができない
二人の人がいるとする。
互いに相手の口に食べ物を運んであげればいいのだけれど、
それができるかできないか・・・・。
 
これは例え話では簡単そうでも、実際のところは非常に困難なこと。
まず相手から食べさせてくれなければ、損をする可能性があると考える。
自分だけ食べられなかったらどうするのだという考え。
たった二人しかいないのだから、相手が飢えて死んでしまえば、
食べさせてくれる人がいなくなってしまうのだから、
相手に食べさせる行為は決して自分だけのためではないのだけれど、
自分のほうが損をしたらどうするのだという考えはなかなか消せない。
 
だから、相手との間に最初から決まり事をつくっておく。
そういう考え方もある。
それを明文化するかどうかは別としてそういうあり方を決めておく。
それは、山岸俊男いうところの「安心社会」。
けれども、そこでは相手を「信頼」しているわけではない。
関係をルーティーン化することで「安心」しようとするのだ。
いわゆる閉じた「共同体」。
利害を同じくする者同士の関係性。
 
人は愛し合うことができる。
けれど、それは傷つけ合うことができるということでもある。
人は与え合うことができる。
けれど、それは奪い合うことができるということでもある。
人は生かし合うことができる。
けれど、それは殺し合うことができるということでもある。
 
その困難さのなかで、人は「自由」を生きている。
自由であるがゆえの「痛み」を避けられない。
 
「神がいるならば、どうして人は殺し合うのだろう」
「神がいるならば、困ったときには救ってくれてしかるべきではないか」
だから、神は存在しないのだ、と考えることもできる。
また、だからこそ私たちは一人ひとりが神的存在なのだ、ともいえる。
その限りないようにみえる痛ましさゆえに・・・。
 
痛みを避けるすべはあるのだろうか。
 
人はなんらかの痛みを感じる状況にでくわすことで、
もうそんな痛みを味わいたくないと思う。
けれどまた同じような状況で痛みを味わってしまう。
そして今度こそその痛みを避けようとする。
その果てるともしれない繰り返し。
 
もしその痛みを思い出しその痛みをそのまま再現できるとしたなら、
その痛みを避けようとする衝動は高まるだろうが、
「神の慈悲」により「痛みの記憶」が取り去られているという。
その「慈悲」は恩寵ではあるのだけれど、
逆にいえば、人は「自由」の可能性を試されているのだともいえる。
 
それは「痛み」を認識しようとするところから始まる。
なぜ痛みを感じるのかがわからなければそれを避けるすべはない。
今は痛みを感じないが、なぜあの痛みが自分に来たのだろう。
痛みを認識によって貫くことで痛みそのものが変容する。
痛みは痛みとして変わることはないだろうが、
その痛みをとらえる自由が変化する。
ただ泣き叫ぶだけの自分ではなくなる。
 
そして相手を縛り合うのではなく、
なぜ自分はこんなにも長い箸をもって、
こうしているのだろうということを知るようになる。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-5

霊性に応じた知


2001.9.8

 
         学者は結果を顧みずに知識についての情報を集め、それを公刊することを第一
        の関心事としているが、そういう意味ではダスカロスは学者ではなかった。彼は
        何よりもまずヒーラーであり、彼の仲間であるすべての人が肉体的・心理的かつ
        霊的にも安らかであることを心掛けているのである。ダスカロスにとっては、あ
        の本は悪魔的なものであった。利己的な目的のためにどのように魔術を行うかに
        ついての処方すら書かれている。このような知識は決してばらまかれてはならな
        いのである。
         それに反して、慎重かつ詳細に手書きされたモノグラフが炎に包まれていくの
        を眺めている時、結果も人の犠牲も関わりなく知識を尊ぶという教育が染みつい
        ていた私は強い不快感を感じたほどだった。知識は良いもので、それを積み重ね
        ていくことはすばらしいことなのだと長らく信じ込んできた私は、そういった信
        条を再検討せざるを得なくなった。ダスカロスの価値観からいえば、知識が破壊
        的な目的に使われないために知識を蓄積し、自然の秘密の鍵を開ける行為はそれ
        を行う者が同時にそれ相応の霊的成長もしていなければならないということであ
        る。
         近年、われわれの知識への追求はこの点をほとんど無視している。大学におい
        てさえ、われわれは容赦なく自然の秘密の中に入り込み、しかもこの知識を管理
        する者が霊的に発達した者でなければならないなどという条件は一切ない。地球
        という宇宙船に住む科学者たちは、愚かにも出世と金と名声を求めて原子を分裂
        させ、想像を絶する様々な有毒素をつくり出し、五万個以上の核爆弾を製造して
        いる。それを放てば、母なる大地をハルマゲドンで燃やし尽くしてしまうことが
        いつでも可能なのである。
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P158-159)
 
知りたい。
その欲望は両義的なところがある。
 
扉を叩けば開かれる可能性があるが、
扉を叩かなければ開かれる可能性は非常に薄い。
知ろうとしなければはじまらないし、
いわば「分」を越えて知ろうとすれば危険性が伴う。
 
よって、道徳や宗教といったものは、
その知りたいを制限することを常道とする。
わからないものはわからないでいい。
ヘタに知るとその秩序が乱されてしまう。
枯れ尾花も枯れ尾花でいたほうが秩序的なのだ。
そのほうが、上から外からの権威が力を持てる。
そんなことをしていたら地獄に落ちるぞ!
世間様に顔向けができない、で済む。
 
かつて秘儀が隠されていたのも、
ある意味では、危険性があまりにも大きいというのがあった。
人の霊性に応じた知識でなくてはならなかったのだから。
 
だから、イエス・キリストは、
秘儀の漏洩者とみなされたらしく、
シュタイナーも秘儀の公開者としての批判も浴びた。
と同時に、一般からは、おそらく変なヤツとみなされ、
アカデミズムからは相手にされなくなったようだ。
だから、「哲学者シュタイナー」というのは
哲学の世界には存在しないも同然だし、
ゲーテの自然学関連の注釈者としてかろうじて名前がでているくらいだ。
それが、最近は、教育のジャンルで知名度をあげていて、
日本でも、卒論にします、という人がふえてきているらしい。
 
シュタイナーはなぜ『自由の哲学』を書いたか。
そのひとつには、秘儀を組織が管理する時代ではなく、
個々の自由において霊性を成長させることが
必要になってきているからというのがあると思う。
 
しかし、勘違いする人はどこの世界にもいて、
刃物を持てば使いたがるというのはある。
自分で林檎の皮をむいたり魚をおろしたりもできるが、
刃物は人を殺す道具にもなりうる。
自分の遺伝子へのこだわりから、
遺伝子技術で子どもをうんだり、
クローンをつくったりすることまで容認されかねなくなっている。
 
自分の認識そのものの範囲内でしか生きられないであろう
霊的世界においては、その知りたいは、
そのまま自分の世界になるのだから、
進歩もないかもしれないけれど、危険も少ない。
 
ところが、この地上世界においては、
自分の認識の範囲を超えて、
たとえば「技術」を暴走させることもできる。
核爆弾もそうだし、遺伝子操作もそう。
科学が科学技術とすり替えられてもわからないようになっているのも、
この地上的な性格が大きく働いているといえる。
 
なぜ精神科学が必要不可欠なのかというのは、
この地上において、認識と霊的成長との間に
いわば中庸を見出すということにおいても見出されるが、
実際のところなかなかむずかしいようにも思う。
しかし、知りたいということを抑圧する時代に
逆戻りすることはできないだろう。
従って、その知識をいかに総合的に深めていこうとするか、
その姿勢の有無が重要になってくるように思われるのだが・・・。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-6

予言


2001.9.9

 
        「これは予言に関してですがーー、この友達は、未来を予言することは可能なの
        か、そしてもし可能であれば、人間に自由はあるのかと尋ねています」
        ダスカロスはニコッと笑みを浮かべ、話し始めた。
        「真理の探求者としての私個人の体験に基づくと、何一つとして前もって決定づ
        けられているものはない、という結論に至っている。これについては繰り返し言
        っているね。未来を予知するということは、起こり得ること、つまり可能性を予
        測しているに過ぎないんだ。何かが起こるかもしれないし、起こらないかもしれ
        ないんだ。その原理は、科学者が現在の事実とそれを取り巻く環境に基づき、未
        来のことをある程度予測することと同じ仕組みなんだ」
         その後、ダスカロスは、コスタスや彼から私が何度も聞いてきたことを繰り返
        した。それは、人間は一瞬一瞬に未来の歴史を書き換えているということである。
        つまり、未来は未決定のままなのだ。その理由は。人間は自らの選択によってそ
        れらのエレメンタルをつくる自由を持っているからだ。そして実際は、このエレ
        メンタルが未来というものの性質を形づくるのだ。したがって、誰かが未来に何
        が起こるかを予言する時、実際その人は何をしているのかというと、これまでに
        つくられてきたエレメンタルの現在のあり方に基づいてこれからの出来事の展開
        を見ているということになる。しかし、人間はその予言を無効にしてしまうよう
        な新たなエレメンタルをつくる自由があるということなのだ。
        (…)
        「予言された出来事が起こるか起こらないか、その可能性の程度を決めているの
        は何ですか?」と私が質問した。
        「その出来事に関連したエレメンタルの強度、エネルギー、そしてその勢いだ。
        エレメンタルのエネルギーが強いほど、その出来事が起こる可能性はより大きく
        なるんだよ。
         私個人としては、おそらく起こるであろうと未来を予言することには、それが
        何であれ、反対だ。とくにおそろしい出来事にはね」
        「なぜですか?」と私は尋ねた。
        「なぜなら、未来を予言することによってそのエレメンタルに人がエネルギーを
        注ぐようになり、その結果、この出来事が起こる確率をいっそう高めてしまうん
        だ。」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P166-170)
 
「人間は一瞬一瞬に未来の歴史を書き換えている」と思えるか、
人間は避けられない宿命を生きていると思ってしまうか。
前者には自由があるが、後者には自由はない。
 
シュタイナーの『自由の哲学』はこう始められる。
 
         人間の思考と行為は自由であるのか、それとも必然という鉄の掟に縛られて
        いるのか。(イザラ書房/P25)
 
旧約聖書のヨナの話がある。
ニネヴェの人々の悔い改めの話である。
これは、集団的なカルマの変更の話だとダスカロスは説明している。
 
予言をするということはどういうことなのだろう。
それは未来を決めてしまおうとすることなのではないだろうか。
ある種の未来像に向かって確信を深めてしまうこと。
それが肯定的なものであればいいのだけれど、
破滅的なものであった場合は致命的な過ちになってしまうように思う。
 
もちろん、今という初期条件から
こういううふうに展開していくとしたならば、
こういう結果を導き出してしまうということを明らかにし、
だからこそ、別のこういう展開も可能である。
ということを模索していくならばいいのだけれど。
 
自由であるということは、
未来を創造する可能性に向かって
開かれているということだ。
それはつまり、他律的ではなく自律的であろうとすること。
自己責任を拡大するということである。
キリストの磔刑という象徴も、
ある意味では、自己責任の拡大としても
とらえることができよう。
それは、さきほど近畿郵政での選挙違反運動で、
「私は組織の人間だ」というのとは似て非なるもの。
 
みんながそうするから、私もそうする、ではなく、
他のみんながそうであったとしても、
私はこれを選ぶと言えるということなのではないか。
愛のために。
全人類60億人がそうではなくても、
自分だけでもそうであれば、
ある未来を創造しようと思えば、
少なくとも60億分の一は
その未来に向かって近づき得るという確信である。
私は一瞬一瞬に私の未来の歴史を書き換えていると同時に、
少なくともその部分だけは人類の歴史を書き換えている!
 

 

 

ダスカロス・ノート3-7

予言と預言


2001.9.15

 
        「キリストが人間としてこの世に降りてきた事実は、歴史的事象の展開の中で詳
        細に記述される一つの歴史的な出来事だけではなかったのです。それは、どの惑
        星であれ、人類の進化が展開して行く時に必然的に到達する一段階なのです。前
        にも言ったように、それは永遠に在り、絶対の中での無動静止状態の一部なので
        す。人類の集団意識があの当時の霊的発達レベルに到達した時、神(ロゴス)の
        降臨が人類に贈り物として与えられ、その結果、人類が自らの到達するところは
        自分自身が神(gods)となる、ということを悟るようにしたわけです」
        (…)
         コスタスはキリストが肉体を持って現われたことの重要さを主張した。これを
        聞いて私が思いだしたのは、ドイツの科学者で透視能力者でもあるルドルフ・シ
        ュタイナーの著書『Christianity as a Mysterical Fact』(神秘な事実として
        のキリスト教)の中に書かれてあることであった。私はあるいは懐疑的な人間か
        もしれないが、コスタスやダスカロスがシュタイナーを知っているとは思えなか
        ったし、ましてや、彼の著作を読んでいるとは考えられなかった。それゆえ、人
        間意識の進化のためにキリストがその時期に重要な役割を果たしたという彼らの
        主張は、その本からの知識によるものではないことは明確だった。最も重要なこ
        とは、この二人の師によって示されているヨハナンの全般的な宇宙の仕組みにつ
        いての教えに、この主張が論理的に符合するということである。とくに彼らのこ
        の主張は、私が明らかに矛盾しているのではないかと思っていた点、つまり一方
        では未来は可能性以外の何者でもないということと、バプテスマのヨハネ同様に
        ブッダも正確にロゴスの到来を予言したというこの矛盾を明確に説明してくれた
        のである。
         このパラドックスの解決は、二つの異なった予言の違いをはっきり見分けるこ
        とにある。一つは、これから起こるかもしれないし、起こらないかもしれない可
        能性としての予言であり、もう一つは、師が宇宙の記憶の無動静止状態の中に入
        ることによって受け取った予言だということである。その無動静止状態の中で、
        師は進化の過程でこれから先に起こる原型的段階を完全に知るのである。キリス
        ト・ロゴスが人間の姿を持ってこの世に降臨したのは、このような段階の一つな
        のである。
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P1184-195)
 
予言と預言。
予言は未来予測であり、
預言は神託を預かり述べること。
 
いわゆる「ノストラダムスの大予言」的なものの危険性は、
未来予測を自由創造によってではなく、
外からまるで決定されていることであるかのように規定されてしまうこと。
さまざまな占いのネガティブな側面もそこにある。
自由であることを恐れる場合、
それによって未来がつくられてしまいかねない。
肯定的な未来が占われたからといって良しとすることはできないだろう。
どちらにせよ与えられたものに従おうとしているに過ぎないのだから。
 
占いが有効なのは、
今というポイントにおいて、
どういう諸要素が初期条件として想定されるかを知ることで、
そこに自由に基づいたどのような関数を作用させるかということだろう。
同じnという条件があったとしても、
そのnにどのように働きかけるかによって、
結果はまるで変わってくる。
7倍するというのと7乗するというのでは異なった結果になるし、
最初がマイナスであれば、マイナスをたす方法も、
かけてプラスにする方法もある。
しかもそれは、その人本人でしかできない関数に他ならない。
 
それに対して、「事実」として受け取らなければならない預言がある。
適切な比喩かどうかわからないが、
たとえば河を上流から今くだっているとして、
その河がどのように流れているかを知るようなものかもしれない。
それは占ってもしかたのないことで、
やがて訪れるもののことを知る必要があるということになる。
ひょっとしたら大きな滝があるのかもしれない。
また、あるポイントに休憩地点があって、
そこでできれば安全のための装備を補充する必要があるかもしれないし、
あるポイントにだけあるものを得ることが
その川下りの最重要課題であるかもしれない。
 
おそらく、シュタイナーの再三示唆していた「キリスト」も、
そのようなものとして受け取る必要があるように思う。
それは、通常イメージされるような「キリスト教」の信仰の対象というのではなく、
そこに山脈があってどうしてもそこを超えて行く必要があるようなもの。
そういう意味でも「キリスト」抜きで脱色された精神科学は
実際に山を越えないで、超えたくないがために、
夢のなかで超えたことししよう、というようなものになってしまうように思う。
 

 

 

ダスカロス・ノート 3-8

可能性と自己限定の間で


2001.9.17

 
         そこでわたしは次のように尋ねた。<人は、どのレベルまで行くことができま
        すか?いろいろなレベルを移動する時、普通の人にはどんな制限がありますか?>
        すると彼は言った。<制限ですって?そのようなものはありませんよ。人がある
        レベルから別のレベルに移動するのを防ごうと、そこに監視人を置いている神な
        ど、どこにもいませんよ。人びとがどこへ行くべきなのかを決めているのは、そ
        の人のサイコノエティック体の質なんです。海面から魚が飛び出るのを見はる監
        視人がいますか?>と彼は聞いてきたので、私は<いませんね。でも魚はなぜ飛
        び出ないんでしょう?>と言うと、<それは、海中にいるのが魚の本質だからで
        す。もしあなたが低次のサイキックレベルから人を連れ出して、それより上のレ
        ベルにその人を置くと、その人は気分が悪くなり、心地よくは感じられません。
        その人の波動がそこのレベルの波動に合わないのです。実際、外には何の制限も
        障害物もありませんよ。人の意識にどれだけパワーがありどれだけ成長している
        かなんです。あらゆる世界のすべてのレベルや小レベルが、すべての人間に開か
        れています。限界は彼らの成長レベルにあるのです。>
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P229-230)
 
この地上の重要性のひとつには、
意識が異なっていても同時存在できるということがあるのだと思う。
イエス・キリストのような存在やシュタイナーのような存在とも
同時代に生きていれば同じ地上を歩くことができる。
これはあたりまえのことのようでありながら、決してあたりまえのことではない。
 
人がひとつだけの電波しか受信できないラジオかテレビをもっているとして、
自分の受信しているたったひとつの放送以外の存在を知らないとすれば、
その放送以外はその人にとって存在しないも同然である。
しかし、この地上世界では、さまざまな放送が受信可能である。
もちろん可能であるということとそれを選択するということとは異なっている。
 
おそらくはこの地上において肉体をもって同時存在しながら、
意識においては人はそれぞれさまざまな世界に存在していて、
たとえともに顔と顔を合わせ、握手さえできるとしても、
同じ世界に存在しているとは限らない。
これだけ数多くの考え方や感じ方が存在し、
書物も映像も夥しく存在しているとしても、
それを理解できるかどうかということはまったく別のこと。
ただ同じ世界に存在する可能性に向かって開かれているということである。
 
その可能性に向かって開かれている場所だからこそ、
おそらく人は何度もこの地上を訪れようと欲することになるのだろう。
今度は別のプログラムを受信しようとして、
そうしてまた以前のようなプログラムしか受け入れられないとしても
たとえば、早朝に語学の講座のテレビかラジオ放送があったとしても、
早起きできないのと三日坊主でそれを続けられないように・・・(^^;。
(ちなみに、ぼくはなんとかまだ
珍しいことにラジオドイツ語講座、続けてきいてます、ほっ…。
これが可能性に向かって自由に開かれているということでもあります(^^)。)
 
なぜ人が知りたい!と切に思うのか。
そのことがなぜ重要なのか。
そのことの根源には、この地上世界のそうした性質と意味があるように思う。
しかし、残念なことに、ぼくもそうだけれど、
ぼくの理解できること、許容できることはあまりにもわずかで、
それでもなんとかそれを広く深くしようと願っているわけである。
だからせめて今少しでも見えかけた光から
目を閉ざすことだけはしたくないと思っているのだ。
少なくともこの地上においてそのきっかけさえ得ることができたとしたら、
地上を離れてもその種を成長させることができるだろうから。
逆にそれができなければ、地上を離れた世界においては、
その存在可能性からさえ自らを閉ざしてしまうことになるだろうから。
 
 

 

 

ダスカロス・ノート 3-9

カルマの克服


2001.9.19

 
         「たとえば、誰かが自分を殺そうとあとをつけている感じがするので助けてほ
        しい、と言う者と出会う。しかし、実際に付きまとっていると、彼がその時感じ
        ている者は彼自身が以前殺した人だということが、透明なヘルパーには分かるん
        だ。それでは、殺人者を悩ますために殺人者に付きまとって、殺害された者のエ
        レメンタルを送っているのは一体、誰だと思うかね?」
         ダスカロスは少し間をおいたあとで、再び優しい声で語りはじめた。
         「それは、殺人者の内なる自己で、彼自身なんだ。このような場合は被害者は
        罪のない人であって、自分が殺されて復讐をするといったタイプの人ではないと
        言えるだろうね。もちろん、被害者が復讐の念に燃え、殺人者に付きまとうエレ
        メンタルを発するという状況もあるんだ。しかし、私が研究した事例においては、
        ほとんど復讐のエレメンタルを出すのは被害者ではなく、自らにそういうエレメ
        ンタルを送る殺人者自身なんだ」
         「殺人者とあなたが言う時、その人の良心の源である内なる自己のことをおっ
        しゃっているのでしょうね」と私は言葉を挟んだ。
         「もちろんだ。しかし、殺人者がこのことから学び、心から悔い改めた場合、
        彼のカルマの重荷から解かれ、犠牲者の苦しみを彼自身が味わう必要はなくなる
        んだよ。これは重要な点なので、この点によく注意を払わなくてはいけないよ。
        もし君が過ちから学べば、人を殺害したことを理由に君が殺害される必要はなく
        なったのだ。<剣で生きる者は、剣で死ぬべし>という法は絶対で、取り消し不
        能であると私も初めは思っていたんだ。しかし、サイコノエティックの次元でさ
        らに調べ、体験した結果、必ずしもそうではないということを発見したんだ。し
        かし、これによってこの法は通用しないとか、誤っているというのではないんだ。
        法は超越し得るということを意味している。教訓を学ばず、正気に戻らなければ、
        君は剣で死ぬんだよ。君の犠牲者が君を最終的に自らの手で殺すようなタイプの
        人でないかは、どうでもいいんだ。もし、君の犠牲者が霊的に高いところにある
        人で復讐をしない人であり、君の方は自分の犯した行動が一体何であったのかま
        だ悟れない場合、君は外科医の手によって死ぬなんてこともあり得るんだよ。し
        かし繰り返して言うが、君の霊的成長のためにその教えを受けるのが当然だとい
        う場合には、そういったことが起こるんだよ」
        (…)
         「ということは、カルマの法は絶対で、変えることはできないというのではな
        く、それは克服され得るものだとおっしゃってるんですね?」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P240-241)
 
自分で自分が落ちるための落とし穴を掘って落ちる。
そんな穴なんか掘らなければいいのに掘ってしまう。
そして自分でその穴のほうに歩いていき落ちる。
そのとき、こう吠える。
だれがこんな穴なんか掘ったんだ!
 
穴を掘る自分と落ちる自分。
同じ自分であって自分ではない。
穴に落ちなければならないというのが重要なのではなく、
なぜ穴を掘ろうとするのかに気づくことがまずは問題であり、
さらには穴を掘らなければならない代わりに
なにができるかということが課題となる。
 
ユングのいうシャドーというのがある。
自分の気づきにくい影の人格。
自分をつけねらう影の存在。
その影が自分におそいかかる。
それを他者だと思っている限りシャドーは襲ってくる。
恐れているとシャドーは実体化して襲ってくる。
さまざまな形をかりて・・・。
 
自分のもっとも恐れているものはなにか。
それはおそろしい顔をかぶっている・・・
と思い込んでいる自分の顔にほかならないのだろう。
 
シュタイナーはたしか「治療教育講義」において、
あえて子どものカルマに関わる必要性について語っていたように思う。
おそらくそれは、子どもがこれから掘ろうとする穴を
別の形で補完するということなのだろう。
穴を掘る代わりにその子どもがどうすればいいのかに気づき、
その子どもと二人三脚する勇気を持つこと。
まるでキリストが十字架にあえてつけられるように。
そのためには、まず恐れを超えて、
自分の真の顔に直面する勇気が必要なのだろう。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-10


2001.9.25

 
         「君は一人の人間としてある生得権を持っている。つまり、君の弱みや罪のよ
        うなものを精算する時、君の支払い能力を超えてまで試されたり、苦しめられた
        りはしないんだ。支払いきれない残りの借りは、ロゴスによってその責任がとら
        れるんだ。それだからこそ、キリストのメッセージはわれわれを感動させずには
        おかないんだよ。真にキリストは<世の罪を負う者>で、このことはキリストの
        磔で象徴されているんだ」
         「あなたが何度も言われてきたことですが、ロゴスは<真の光で、この世にや
        って来るすべての者を照らす>ということでした。その光は、われわれすべての
        者の中に見出すことができますね。したがって、ロゴスが十字架で磔になったと
        いう例は、現実にはわれわれ各自が互いのカルマを背負い合うようにと指示して
        いるのですね」
         「その通りなんだ。しかし君が誰かの重荷を背負うとき、実はその重荷はいつ
        も自分自身のものなんだということを自覚しているようにね。君の進化がキリス
        ト意識の発達段階に到達すると、他人の重荷は君の重荷であるということに気づ
        く。君も他の人も人間であり、内にキリストを持っている。したがって、われわ
        れは運命を共にしているということになり、借りを共有していることになる。」
        (…)
         「まず初めは、君に近しい者のカルマを背負うことを学び、後になって罪人や
        敵と見なされている者のカルマを背負うことを学ぶ」
         「それができるためには、霊的進化の高いところに到達していなければなりま
        せんね」と私は言った。
         「そうだ。しかし、それこそが道であり、われわれに先駆けてキリストが示さ
        れたお手本なんだ。十字架に磔にされ、彼が言われたことを覚えているね。<父
        よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか分かっていないのです>」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P250-252)
 
自分では背負いきれないほどの苦しみや悲しみはないのだとしたら、
今ある苦しみも悲しみも必ず乗り越えられるはず。
だから、苦しみや悲しみに負けそうになったときは、
目をそらすのではなく、そのなかで目を開いているのがいい。
そこに確かに道があるのがわかる。
 
苦しみや悲しみに負かされることは決してない。
みずからの内にある恐れに負けてしまうのだ。
目を閉ざそうとしたときに肥大していく恐れこそが敵になる。
その敵は他者ではなく自分そのものの影の存在。
光を背にしたとき、
影は自分の前に立ちはだかるように現われ、言うだろう。
「おまえはもうおしまいだ!」と。
 
しかし影が現われるということは、
光がそこにあるということを証している。
目を閉ざすということは、光を背にしてしまうということ。
目を開くということは、光に顔を向けるということ。
光を見れば、すでに影は姿を消している。
 
私たちは、自らが負うことのできる、
負おうとする荷に応じて自由と愛の存在たりえるのだろう。
自らが負うべき荷から逃れようとすることは、
愛と自由から逃れようとすることであり、
他者の負うべき荷をも負おうとすることは、
愛と自由への輝く道である。
 
自らが荷を負おうとするということは、
目を開いて、自分が何をしているのかを見るということでもある。
そして、荷をたくさん背負おうとすればするほどに、
自分の足もとへ、進む先へとしっかり目を向けている必要がある。
もちろん自らの荷をなおざりにしてしまったままで、
他者の荷を負うことなどできはしない。
 
世界は縁起のネットワークであり、何事も孤立して存在することはないのだから、
自分が目を開いたときに見えるものとの関わりに目を閉ざしてはならないだろう。
もちろん、目を閉ざしたときに見えるものではない。
それは自分の影になってしまうから。
 
影は巧妙に語りかけるかもしれない。
「ほら、こちらにおいで。自分のことなどほうっておきな」と。
「みんながここにいるよ。いっしょに渡れば影だってこわくない。
さあ、こうして手を引いてあげるから」。
 
道はそこにあり、だれもがそこを歩むことができる。
しかし影に手を引かれ道をゆくとき、そこは光の道ではない。
自由から歩むとき、はじめてそこに光の道が現われてくるのだ。
 

 

ダスカロス・ノート 3-11

愛としての思考


2001.10.2

 
         「第二の死の時点では、感情といっても大変低いレベルの感情のことだが、そ
        れがもはや君の中で支配的な力を持たず、思考が中心になる」
         そこで私が尋ねた。
         「思考と知性をどのように区別するのですか?あなたが<思考>とおっしゃる
        時、愛とか情を欠くことになりませんか?」
         「愛は情とか気持ちではないんだよ。愛はまさに絶対の本質で、われわれは愛
        と普通の愛とを区別しなければいけない。太陽と、燃えている木やロウソクを区
        別しなければならないのと同じだ。ごく普通の人間の気持ちとか心情の世界は、
        たとえ最も高貴と見なされている人のものであっても、高い意識レベルから見る
        と、それはただの燃えている木に過ぎず、ほんのかすかな明かりをわれわれに与
        えてくれるだけだ焚き火と太陽とでは比較にならないよ」
         「しかしダスカレ、第二の死の時点で思考の世界へ入るとおっしゃいましたが、
        それは、気持ちや感情をなくしてしまうということですか。そこではそれが必要
        ないのですか?」とエミリーが尋ねた。
         「この点でも、現象としての感情と、本質としての感情とを区別しなければい
        けない。ノエティックの高次元では、人は愛となり愛そのものなんだよ。低次の
        世界では、基本的には利己主義的自己愛の反映として人は他人を愛しているが、
        愛はそのようなものではないんだ。低いレベルでは、人は愛していると思ってい
        ても自分自身に心を奪われているんだ。だから、ここで私が感情と言っているの
        は、こういった低いレベルのことなんだ。この惑星では、真に愛することを知っ
        ている人はあまりいないよ」
        (…)
         「こういったレベルでの思考は自己そのものなんだ。それは自己の本質であり、
        己を喜ばせたり、がっかりさせたりする外部にあるようなものではないというこ
        とだ。こういった高いレベルにある思考は愛そのものなんだ。最高の境地とは、
        <汝の敵を愛せよ>というキリストの教えを人が真に理解し、それを実際に生き
        るということなんだよ。この地点に達すると、われわれの本質が殺人者すらをも
        自分自身と見なすようになるんだ」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P257-260)
 
自分というのはいったいどのような存在なのか?
と自問自答してみる。
 
私たちはこうして身体をもっているから、
この身体が自分だと思っていたりもするのだけれど、
どうもそれだけではないということはうすうすわかる。
 
自分の顔を鏡に映してみる。
そうすると、自分の顔だとふつうはわかるのだけれど、
これがわりとたよりない自分だったりもする。
毎日けっこう変化したりするし、
子どもの頃、若かった頃、そしてずっと年とった自分・・・
などを思ってみると、自分っていったいどんな顔なのか、
わからなくなったりもしないだろうか。
 
それと、たとえば自分の右足一本がなくなったとしたら、
左手一本なくなったとしたら・・・
というふうにどんどん身体の部分を外して
それを機械に取り替えていったりすると、
残るのは、脳だけだったりするのだろうか、とか
SFの話にもでてきそうなことを考えたりもする。
 
で、いろいろ考えたあげく、自分というのは、この今思っていること、
思えるだろうことそのものだとしたらどうだろうと思い至るのではないか。
そうだとすると、思っていることそのものが行動そのものでもあるといえる。
だから、たとえば、頭ではわかるんだけれど…、
というのはその思いの世界が展開しないのだということもわかる。
つまり、頭ではわかるんだけれど…、というのは、
認めたくない、気持ちのほうで納得できない、
ゆえに、自分とは切り離されていて、
自分のなかには存在しないということにもなる。
 
思いだけしかない世界のことを思い描いてみるとすると、
私とあなたの違いというのは、その思いの描き出す世界の差異であって、
私とあなたの接点というのは、その共通部分だということになる。
 
しかし、その思いの世界が、この地上においては、
みんなが共通した世界として持てる物質部分があるがゆえに、
(私たちの身体というのもそのひとつ)
他者ということを認識できるようになっている。
主ー客の世界である。
物質という特殊な霊的状態、主ー客という仮の世界があるからこそ、
「私」は「思い」を超えて、「あなた」に出会うことができ、
その出会いによってみずからの「思い」を拡げていくことができる。
肉体を持った主ー客の世界のなかで、個別の自我を持ち、
愛を発展させるということでもある。
 
「愛」の極北は、おそらく、
「私」が「あなた」になる、「あなた」が「わたし」になるというように、
主ー客を超える、しかもそれをこの物質世界という
主ー客世界のなかでの自我においてそうなるということなのだろう。
<汝の敵を愛せよ>、というよりむしろ、敵が存在しえなくなる。
 
シュタイナーの『自由の哲学』では、
思考は素朴実在論の当てはまる、
主ー客の二元論を超えたものとして論じられているが、
そういう意味で、そこで示唆されている「思考」は
その「愛」に他ならないことがわかる。
おそらくはイントゥイションとしての思考。
それは主ー客を超えたものであるのだから、
まさに、私の思考というのではなく、思考そのものがそこにあるのだといえる。
数学で、私の三角形の定理とか私の二次方程式の解とかいうことが意味をもたないように。
シュタイナーが対象のない思考の重要性をいうのも、
主ー客によってとらえられる思考を超える必要性を示唆していたのではないだろうか。
 

 

 

ダスカロス・ノート3-12

サイコ・ノエティック体の完成へ


2001.10.3

 
 
         「地上に降りて来るすべての者にとって、彼らの中心課題はサイコ・ノエティ
        ック体をつくり上げることである。この身体は、われらの<天にまします父>が
        放蕩息子と放蕩娘としてのわれわれに与えた、天からの授かりものである。この
        肉体に加えて父は感情と知性の能力、つまりサイキック体とノエティック体を与
        えたのだ、一人生から次の人生へと人間は皆、思考と感情の総体であるサイコ・
        ノエティック体を形づくる方向に向かって進むのである。因果の法則、つまりカ
        ルマの法を通してこのプロセスは潜在意識のレベルで進んでいる。すべての人間
        は必ずや、神との一体化の入口に、完成したサイコ・ノエティック体を持って出
        向くのだ。これこそが、地上に降りて来るすべての人間存在の課題である。真理
        の探究者はサイコ・ノエティック体の完成に向かい、宇宙の中で巧みな彫刻家の
        ように取り組んでいるのである。彼らは意識高く目的に向かって行動しながら、
        無知と痛みと悲しみの道であるカルマの法と、輪廻転生という無限に繰り返して
        やまないサイクルを超越するのである。
         私たちは一つひとつ小石を置くように、ゆっくり忍耐づよく努力するのである」
         「それは自己意識とどのように関係していますか?」とネオフィトスが尋ねた。
         「みなさんの自己意識は、今まさにこの時点で皆さんが獲得している知識を通
        して発達しています。皆さんがここで得る知識が意識の中で吸収されているので
        あれば、その時はいつでも自己意識に取り組んでいるといえるのではありません
        か?」
        (キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
         太陽出版/2001.8.20発行/P324)
 
パウロの「コリントの信徒への手紙」には「復活」についての
非常に示唆的なことが記されています。
 
        実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
        死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
        つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによって
        すべての人が生かされるようになったのです。(15-20〜22) 
 
ダスカロスが地上に生まれるすべての人の中心課題が
「サイコ・ノエティック体」をつくることだというのは、
おそらく人類の未来にむけての雛形でもある「復活」と
深く関係していると考えてもよいのではないだろうか。
以下にあるような「天に属するその人の似姿」がそれ。
        
        蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しい
        ものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに
        復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自
        然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初のアダムは命のある
        生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったので
        す。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体
        があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する
        者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する
        者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは土からできたそ
        の人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
        (15-35〜49) 
 
その「サイコ・ノエティック体」を形成するためには、
この地上に肉体をもって生まれなければならない。
肉体をもって生まれることで、個的な自我がそのなかで働くことができる。
自我は、肉体という鏡があってはじめて働くことのできるものです。
肉体という鏡を持つことで、自我は肉体に働きかけ
それを変容させる可能性を得ることになります。
 
シュタイナーは現在の人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我という
4つの構成要素を持っているといいますが、
そのなかで最も古いのが肉体なわけです。 
宇宙進化論的にいえば土星紀に肉体の萌芽ができました。
そういう意味でも、人間の現在の構成要素のなかでは
もっとも完成されているといえます。 
 
さらにこれからの進化において、人間は、
自我がアストラル体に働きかけて変容させた霊我、
自我がエーテル体に働きかけて変容させた生命霊、
そして、自我が肉体に働きかけて変容させた霊人を
形成していくのだというのですが、
その肉体の変容させた構成要素である霊人こそが、
現在の進化のスパンではもっとも高次のものです。
 
その霊人というのは、
復活したキリストと非常に深い関係にあるように思います。
それに関しては、シュタイナーの連続講義の「イエスからキリストへ」に詳しいのですが、
そこらへんのことについては、以前も引用紹介した
高橋厳さんの「千年期末の神秘学」(角川書店)の第6章「キリスト衝動」から
あらためてみておきたいと思います。
 
        肉体は宇宙創造の出発点から今日まできているので、もっとも長期間に亘営為の
        結晶であり、人間存在を構成するものの中でもっとも高度に発達した部分なので
        す。そのいちばん発達している肉体が本来、目に見えない性質のものだというの
        です。見えているのは、その肉体に物質素材が入り込み、エーテル体、アストラ
        ル体、自我と結びついているからで、純粋な肉体形式そのものは可視的ではない
        のです。眼に見えず、透明に輝いているのです。そういう肉体の形が、そもそも
        の宇宙の発端から、神々によって与えられ、時代とともに進化発展してきたので
        す。 
 
        その眼に見えない肉体形式のことを、シュタイナーは「ファントム」と呼びまし
        た。「ファントム」とは、物体の構成部分を形式と素材に分けるとき、素材の働
        きから自由な形式そのもののことをいうのですが、単なる形式であるにとどまら
        ず、素材に働きかけて、物体を構成しようとする意志をもった形式のことです。
        その形式は非常に強い意志をもって人体を形成してきましたが、その形式に盛り
        込まれた内容(素材)が堕落しているのです。・・・ 
 
        ですから二つの人体があるのです。現実の人体と理想の人体の二つです。現実の
        人体は遡るとアダムにまで行き着くのに対して、理想の人体はキリストに行き着
        くのです。この二つを併せ持っていることが、われわれの肉体の意味なのです。
        人体とは、言い方をかえれば、自然の体と霊の体のことです。それでパウロが、
        「コリントの信徒への手紙」で、「自然の体で朽ち果てて、霊の体で甦る」と書
        いたのです。(P147-149) 
 
引き続き、なぜ肉体の存在が重要なのかということに関して。 
 
        シュタイナーがキリスト教の本質を復活論の中に見て、パウロ的なキリスト教を
        大切にしようとしたのは、人体の存在が本当に重要だということを知っていたか
        らです。なぜシュタイナーは、人体のことをそれほどだいじにしたのでしょうか。
        そもそも人体は土星紀から、神々が長い時間をかけて創り上げてきました。人間
        は人体から始まったのです。もちろん人間の人格にとって本当にだいじなのは、
        人体ではなく、人体の中の自我です。けれどもその自我は、肉体がないと発達し
        ません。自我と肉体とは不可分の関係にあって、それを媒介するのがその中間に
        あるエーテル体とアストラル体なのですが、肉体は人間の自我を発達させるいち
        ばんの大切な道具なのです。人間には肉体がありませんと、地上を生きる人間の
        課題を果たす自我が、その力を十分に発達させることができません。(P153) 
 
ダスカロスは、「自己意識に取り組」くむことの重要性を示唆していますが、
まさにそれは「自我」と深く関わっています。
自己意識というのは、自分の内に意識を向ける反省意識。
それによって自我は感情・感覚の体であるアストラル体を変容させるための
営為を可能にすることができます。
それがなく、自分の感情を放縦なものにしてしまうとそれができません。
さらに、自我は生命体としてのエーテル体に働きかけ、
生命霊を形成していきます。
そして、肉体に働きかけ、霊我を形成します。
パウロはそれを復活といったのではないでしょうか。
 
肉体は私たちのもらった天からのもっとも高次の授かりものです。
いわゆる霊的なことに興味のある方の多くは、
肉体は低次のもので、それを脱ぎ捨てるというような視点しか
持ち得ていないことがありますが、
それでは根本的なところで認識が欠落してしまうことになります。
きわめてルシファー的になってしまいますし、
そのことでむしろアーリマンの陥穽にも陥りやすくなってしまいます。
 
物質というのは、第一ロゴスとしての「父」なる働きであり、
そのことを理解しなければ、人間がこうしてわざわざ地上に肉体をもって
存在する意味は決してわからないことになります。 
また、なぜ自我を肉体をもった私たちひとりひとりのなかで
働いている自我が重要なのかもわからなくなります。
 
肉体を霊化すること、その秘儀がキリスト衝動であるともいえます。
自我のなかで「叡智」が内面化され、
それを「愛」の萌芽として育てていくことによって、
<天にまします父>の放蕩息子、放蕩娘としての私たちは
「天に属するその人の似姿」へと「復活」することができるようになります。
 
 


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