ダスカロス・ノート3-1
オントピーシス
2001.8.25
「ある仏教の一派の考えで一般に受け入れられているものでは、意識の究極状
態は自我が無の状態になること、つまり自己たるものがトータルな神の中に巻き
込まれ、希薄化された状態になるということなんだ。この状態では、個人として
のわれわれは存在しなくなるというわけだ。この考え方は、西洋の俗界の多くの
インテリ層にアピールしたんだ。彼らの不可知論にとっては、この概念のほうが、
個々の意識は不滅であるという考え方よりも、うまく噛み合う。…」
「<かくして、死が訪れると、個人は消滅し、一つの雫が海に落ちて消えてしま
うということなのかもしれない。しかし同時に、自らの本質は何であったのかを
人は悟るようになるのである。雫そのものは、単に雫であるばかりか海でもある
ことに気づくのである。>これだと、<死後はどうなるのか?>という質問に対
して、この著者の答えはおそらく<すべてであり、無である>という風になるん
だと思う。
もし、ここをダスカロスが読んだら、彼はきっと笑い転げてしまうよ。死によ
って悟りが得られるのであれば、英知への確実な道は自殺ということになる、と
言うだろうと思うよ」
(…)
「なぜ私たちは肉体をもって生まれてくるの?」
「…ダスカロスとコスタスは、肉体化して現われる目的は絶対のワンネス(統
一性)の中で個性をなくすのではなく、そのユニークさを発達させることだと教
えているんだ。二極に分離した世界へ降りて来る前は、低レベルの世界の体験も
なく、顕著な個性もなく、われわれは神(gods)であった。皆、似たり寄ったりで、
時空を超えて大天使的存在として生きていたんだ。スピリット・エゴ、つまりプ
ニューマに様々な体験の機会を与えるために、時空が存在する二極分離の低レベ
ルの世界がつくられた。そしてスピリット・エゴは、この体験を通して最終的に
オントピーシスに辿り着くわけだ。…
ダスカロスとコスタスによれば、この大いなる真理は、イエスによって放蕩息
子の例え話の中で美しく表現されているということだ。オントピーシスは、放蕩
息子が時空の世界で試練や苦難の体験を重ねたあとに父の宮殿へ戻った状態のこ
とである」
(キリアコス・C・マルキデス『メッセンジャー 永遠の炎』
太陽出版/2001.8.20発行/P51-53)
仏陀は人は生まれ変わるどうかという質問に対しては
沈黙を守ったということがいわれていたりする。
実際、仏教の諸派では、生まれ変わりが当然のように言われていたり、
また逆にほとんど唯物論のような考え方があったりする。
特にかなり知に偏った仏教では(もちろん中途半端な知なのだけれど)
無とか空とかいう言葉を使って難解な論理を構築し、
結局のところ何を言っているのかわからないようなことになってしまっている。
「死が訪れると、個人は消滅し、一つの雫が海に落ちて消えてしまう」
とかいうのはよく使われる比喩で、わかったようなわからないような、
でもムード的に少しは救われたような気にもなったりする。
極論になると、人を構成している物質素材が死後に
生まれてくる人の肉体の一部となる可能性を示唆したりもすることになる。
しかし、そういう考え方は、結局、
論理的にいえば、自殺の勧めでしかなくなる。
もっとも良心的な方は、「不可知論」的な立場になるのだろうけれど、
だからこそ慣習としての葬式のような儀式を
ただルーティーン的にこなしてしまうだけになってしまうことになる。
では、なぜ人は地上に生まれてくるのか。
そして自殺を促進しなくてもすむような英知の獲得が
こうして生きていることにあるとするならば、
それが意味あるものでなければならないだろう。
ダスカロスは、「現在の人格は、死の直前の人生で持っていたレベルの知性や
知識や自覚をすべて携えて、そのまま続けていく」。
そして、「その現在の人格が次元に適応してくると霊的進化をさらに進めるために、
より知識を獲得する機会が与えられる」のだと言う。
けれど重要なのは「最初のステップはこの物質界で取らなければならないというのが
条件だ」ということらしい。
死後になったら、現在の無明が解決するわけではないわけである。
「オントピーシス」の重要性もそこにあるように思う。
ある意味で、今この地上の生で種を蒔き、
ある程度成長させるプロセスを踏んでいることによって、
死後の霊的進化が規定されてしまうことがあるということでもある。
だから、今ここで種を蒔く作業をまったくしないでいたとしたら、
死後そこで種を蒔くことが困難になってくる。
「最初のステップ」がないとしたら、その次を踏み出せないわけである。
そういう意味でも、シュタイナーの精神科学は、
その現代的な総合性という意味でも、
かなり進んだステップとして非常に重要なものなのではないかと思う。
なぜシュタイナーのいうことが非常に難しく困難なのかというと、
それが単なる宗教的ドグマの押し売りでも、
「この薬を飲めば効く」というような結果主義の産物でもなく、
その認識のプロセスそのものが霊的進化につながっていくからなのだろう。
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