風日誌

□落語/狂言/オッター・FOLKSONGS


2005.3.12.

 

風日誌2005.3.12.Sat.□落語/狂言/FOLKSONGS
 
風日誌2005.3.12.Sat.
 
・落語
・狂言
・オッターの「FOLKSONGS」
 
相変わらず落語を聞いている。
とりあえずCD化されている志ん朝を中心にしているが、
もちろん円生も志ん生も、談志も、
それから馬生、金馬、金語楼、三木助、
小さん、小三治、正蔵、円楽、文楽、米朝、枝雀なども、
とりあえずきけそうなものを手当たり次第きいている。
 
そんななか、新聞で、風間杜夫が落語をやっているという記事もあった。
「心臓ばくばく」でやっているとのこと。
俳優で演じているのとは別の次元の難しさが芸として要求されるのだろう。
そういえば、枝雀の落語ーーたしか蛇含草だったと思うがーーを先日きいていたら、
そのマクラで、当時テレビドラマに出演していた話のなかで、
俳優は人と受け答えしながら演じないといけないが、
落語はみ〜んなひとりでやってしまうので、
ドラマの収録をしているときついついひとりでやってしまいそうになる、
とかいうのがあった。
たしかに、たしかにである。
とくに志ん朝の落語をきいていると
その登場人物の描き分けの妙にスゴミを感じることがよくある。
それが書かれたものではなく実際に演じられるものであること、
しかもあのスピードで演じられるものであることを思うと
そのむずかしさというのは想像を絶するところがあるのだろうと思う。
 
さてそれから、ほぼ日でも登場していた春風亭昇太の「CDブック」が
この23日紀伊國屋書店に並ぶというニュースが一昨日ほぼ日に載っていた。
いつのまにか落語があらためて、
ある部分では別の形で見直され始めているのかもしれない。
志ん朝が亡くなったとき、
これで江戸落語が終わった、落語も終わった、
とかいうような話も聞かれたが、
なにかの終焉は場合によれば何かの始まりになるのかもしれないのだ。
 
その他、江戸時代の落語を集大成し、
明治時代の落語の確立者でもある圓朝の話も面白い。
その圓朝の残した『眞景累ヶ淵』『怪談牡丹燈籠』なども
おおよその話は知っていたが、これだけ大部のものだとは知らなかった。
この両者、岩波文庫で今も読むことができるが、
ちょうど部分的ではあるが、志ん朝の演じる『眞景累ヶ淵』、
円生の演じる『怪談牡丹燈籠』を手に入れることができたので、
近いうちにきいてみたいと思っている。
 
そんなこんなで、自分のあまり見てこなかったものを
この際見てみようと言うことで、図書館で
『唐相撲』という茂山一門と野村萬斎の出演する狂言と
坂東玉三郎舞踏集『京鹿子帳娘道成寺』を見つける。
後者はこれからということだが、
前者はさっそく見ると、これが抱腹絶倒。
登場人物も40名ほどという狂言ではもっとも大きなスケールのもの。
ストーリーはごくごく単純なものなのだけれど、
狂言がサーカスのような部分も交えて演じられるものだということを
これをみて初めて知ることができた。
これだけでも世界は確実に広がってゆく。
 
こういう芸能の世界ひとつでも驚くほどの広がりがあるのに、
現代の日本の文化状況はマス的にみるとやはりかなり貧困に見える。
やはり受容する人たちの広がりがないとむずかしい部分があるのだろう。
しかも、「日本」ということを過剰に叫ぶひとほど、
こうした深みや広がりの世界を等閑にしながら、
妙に「べき」としての日本を言い立てる傾向もあったりする。
困ったことだけれど、狂信者や原理主義者の世界は
そもそも排他故に成立するものなのだろう。
狂信ではなく、狂言であってほしいものなのだけれど、
狂信にはユーモア、笑いという自己意識が欠けているので、
言葉は似ているがその方向性はまったく交わることはない。
 
さて、今日の音楽は、
オッター(ソプラノ)とフォシュベリ(ピアノ)の
「FOLKSONGS」POCG10289
ドヴォルザークの「ジプシーの歌」やコダーイの「ハンガリー民謡集」
ブリテンの「フランス民謡集」など、
「芸術歌曲と民謡の間に位置する歌」が収められていて
比較的気軽に楽しむことができる。
ある意味では、落語や狂言のように楽んだほうがいいのだろう。
 
 

 ■「風日誌」メニューに戻る
 ■「風遊戯」メニューに戻る
 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る