風日誌

松岡正剛とノスタルジア/オリジナルラブ『街男・街女』


2005.2.02

 

・松岡正剛の千夜千冊再開
・場所
・ノスタルジア
・原郷への帰還ではなく、原郷からの帰還
・オリジナルラブの『街男・街女』
 
ひさしぶりに松岡正剛の「千夜千冊」をみてみたら、再開されていた。
松岡正剛は今年1月25日で61際になったらしいが、その日付の
「千夜千冊」の千2冊目のところで【まえおき口上】があり、
「中国の暦法慣習にもとづけば、ここから新しい1歳が始まるということになる」
ということらしいが、「千夜千冊」が今度は、
「「千夜一尾」のあてどのない散策」として再開されるということである。
ちょっとうれしい。
 
それで、その第千二夜が、ミルチャ・エリアーデの『聖なる空間と時間』。
今回論じられているのは、「場所」のこと。
トポスである。
 
松岡正剛は、「場所について考えるときには
大きくは二つの流れに注目したい」という。
 
	ひとつは、古代から「斎きの庭」とか「結界」として意識されてきた場所 で
	ある。ここにはたいていムスビ(産霊)がこめられてきた。そのムスビ のエ
	ージェント・モデルが神籬である。
 
	もうひとつは、西田幾多郎の「場所の論理」に発想された場所論だったろう。
 
そして、「聖なる空間と時間」としてのその場所について、
「われわれの母なるもののすべての起源」としての「永遠回帰を促す場所」に 
ついて語る。
 
	この場所こそが生と死の観念のルーツではないのか、この再生と死滅を同時
	に約束する場所にこそわれわれのノスタルジアの根拠ではないのか
 
というのである。
 
松岡正剛といえば「遊星的郷愁」だが、
意外なことに、というか少し読んでいけばすぐわかることなのだが、
松岡正剛はまさに「ノスタルジア」の人なのだ。
 
	 いま、多くの者の心は何かを喪失している「いたみ」を感じている 
であろう。
	そういう時代だ。その「いたみ」は親しいものを亡くした「悼み」であり、体
	におぼえのある「痛み」であり、自身の心だけが知る「傷み」でもあろう。こ
	の「いたみ」はいつかは必ず知らなければならないもので、捨てようとしても
	棄却できない。いつかは直面せざるをえない。
	・・・
	  諸君には必ずそういう喪失感がある。むろん、ぼくにもある。それは、それ
	とは名指しできない原郷なのである。それこそが本来の意味でのホームシック
	であり、ノスタルジアというものなのだ。そこへ行ってみなければ、ああ、こ
	こだったのかとわからない場所なのだ。
	  わかってもらえただろうか。諸君は原郷という場所を喪失したままなのだ。
	回復されるべきなのは本来のノスタルジアなのである。そして、そのようなノ
	スタルジアには必ず永遠回帰のための結界がどんなに小さくても必要なのだろ
	うとということだけを、言っておきたい。そう、アンドレイ・タルコフスキー
	の『ノスタルジア』のように。
 
松岡正剛のあのエネルギーの源は、その「原郷」へと
「永遠回帰」するための「場所」を促す「場所」を探す営為なのかもしれない。
 
松岡正剛をとても尊敬しながら、
どこかひっかかるものを感じているのだけれど、
ああこれなのかもしれない、という気がした。
この「原郷」へのノスタルジーこそが、
松岡正剛をシュタイナー的な神秘学から遠ざけているものなのかもしれない。
「ノスタルジー」が開かずの扉となってしまうということである。
つまり、「原郷」へと「永遠回帰」したときに、
ひとはそこからどこへもいかなくなってしまう。
 
しかし重要なのはおそらく、
そこからの一歩なのかもしれないのだ。
釈迦が往ってしまうのを断念して「世界」に帰還したように。
重要なのは、「原郷」へと回帰することではなく、
むしろ「原郷」から帰還することなのではないか。
そこからすべてがはじまる。
 
「世界」に新たなものが付け加わる。
それがどんなにつまらなくみえることでも。
ベルリン天使の詩で、恋する故に天使が地上に堕ちて、
血を流し、寒い手をさすり、熱い珈琲を飲むように。
 
さて、今日の音楽は、オリジナルラブの『街男・街女』。
 
オリジナル・ラヴの田島貴男という人物を知ったのは、
「ほぼ日」で、岡本太郎の特集があったときなのだが、
ぼくには岡本太郎よりもある種のカルチャーショックがあった。
岡本太郎のあのイノセントなエネルギーの爆発的なところは
いうまでもないのだけれど、
田島貴男のイノセントもたいしたものなのだ。
その何にでも驚いていくエネルギーが「ほぼ日」で
いわば実況のようにされているのをみていると、
やはり、こうして地上で生きているというのは、
なんにせよ、驚いていくことそのものでなくてはダメなのではないか。
 
この人の音楽をきいても思うのは、その驚きのエネルギー。
だから、こちらが虚無感に満ちているときには
その音楽はとてつもない馬鹿騒ぎのように聞こえてきたりするのだけれど、
こちらに驚く用意があるときには、いっしょに馬鹿騒ぎする気にもなる。
とはいえ、このアルバム『街男・街女』は、けっこうよくできている。
しかもそこから立ち上がってくる爆発力はたいしたものだと思う。
 
 

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