風日誌

エンデと闇/シュニトケ『悔悛詩編』


2005.1.21.

 

T・エンデと闇
・シュニトケ『悔悛詩編』
 
エンデとシュタイナーのことを考えていて、
以前読んだ『ものがたりの余白』のなかで、
エンデが、シュタイナーには共感し深く影響を受けているが、
とくにオイリュトミーのような人智学の芸術観には異議がある
というようなことを語っていたのを思い出した。
作家であるエンデがシュタイナーを両手放しで語るようなことがないのも
そのことに関係しているのではないかと思う。
 
エンデはむしろ深い闇を見据えることそのもののなかから
光を希望を見いだそうとした作家なのだということもできるが、
その点で人智学的芸術に対して共鳴できないところがあるのだろう。
 
人智学的芸術についてはよく知らないところが多いのだけれど、
たしかにその点ではエンデのこだわりは納得できるところがある。
シュタイナーの神秘学に関しては、闇を見据えていないとはいえないのだけれど、
なぜその影響を受けたアントロポゾフィー運動における芸術が
そうなってしまうのだろうか。
 
おそらくその原因のひとつは、
いわゆるシュタイナー教育の流れが大きく、その教育の実際においては、
その闇の部分が強調されにくいからなのではないだろうか。
つまり、小さな子どもの教育を「闇」から始めることはできないということである。
闇を見据えるというのは、自我の成長に関わるものであって、
自我の成長以前の段階においては、闇がじゃまになる、ことになる。
だから短絡すれば闇は見ない方がいいということにもなってしまう。
もちろん小さな子どもにおいても、闇が不要だというわけではないし、
まして小さな子どもではない大人には、闇を見据えるプロセスは欠かせない。
 
脱色されていないメルヘンや伝説、昔話などをみればわかるが、
それらは生の現実というかその源泉としての闇に満ちている。
というか闇と光がある意味で分けられない形で残っている。
たとえば手塚治虫や宮崎駿がヒューマニズムにカラーリングされた物語を嫌うのも
エンデと同じ観点を共有しているのだといっていいかもしれない。
 
とくに第一次大戦、第二次大戦をはじめ
大量殺戮の世紀とでもいえる20世紀を経た現在において、
「闇は本来ないのだ」という姿勢での芸術はおそらく成立しないだろう。
言葉においてはそのことがとくに重要になる。
子どもだましという言葉があるが、
実際のところ、子どもを自分のなかにもった自分を忘れていない大人もふくめて
その言葉はむしろ「子どもを装った大人だまし」にほかならない。
 
シュタイナーは一元論を自由の哲学において提唱しているが、
そこにおいて焦点になっている自由は、
決して闇をみないですまそうとするような一元論ではありえない。
神秘学の重要なテーマのひとつは、まさに悪の変容、
闇のそこをぶち破りながら闇とともに変容しようとする姿勢にほかならない。
それはマニ教神話にみられる内容とも関連している。
 
さて、今日の音楽は、ずっとロシアで活動しながら
ドイツの影響を深く受けている作曲家シュニトケの1987年の声楽作品
『悔悛詩編』(カリュステ指揮・スウェーデン放送合唱団ECM1583 453513-2)。
 
この作品のテクストは16世紀に書かれた無名の修道僧による詩で、
「天国の門前に座り、アダム泣きけり」ではじまっている。
 
原罪というのは、表現としておそらく不適切な部分があるだろうが、
人間が人間であるということは、本来の霊的な次元の部分と
地上的な肉体性の部分を同時に有している存在であって、
そのことを真にふまえる必要があるのだと思われる。
そしてアダムの悔悛というのは、「知恵の実」を味わうがゆえに
地上において生きる人間存在と関係しているのだといえる。
 
 

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