風日誌

ラルフ・イーザウ『暁の円卓』


2004.12.25

 

・ラルフ・イーザウ『暁の円卓』第3巻〜第5巻
・かつてのファシズムと現在
・パウル・ツェランとハイデッガー
・「歴史とは何か」
 
昨日、今日とラルフ・イーザウ『暁の円卓』の
第3巻から第5巻までを読む。
全9巻刊行される予定なので半分を過ぎたところ。
主な舞台は、ヒトラーのドイツ、そして原爆の落とされる日本。
イーザウはかなり日本通であることがうかがえる。
シュタイナー理解はちょっとお粗末なところがあるものの、
20世紀のちょうど半分の歴史がこれで描かれたことになる。
昭和天皇も主人公デーヴィッドの友人として全面に登場する。
話は荒唐無稽であるものの、そこに描かれている真実は荒唐無稽ではない。
 
ところで、この第3巻から第5巻までは
この10月〜12月にかけて続けて刊行されたのだけれど、
なぜか第1巻と第2巻が置かれてあった書店に
入荷している形跡がなさそうだ。
ぼくが見つけたのは、特に第5巻は、紀伊国屋だけ。
どうしてなのだろう。
やはりファンタジー系のものがふえてきているので、
そのなかでは、ちょっと重い分だけ敬遠されているのかもしれない。
やはりそんなに売れていそうもない。
ひょっとしたら昭和天皇に比較的好意的に描かれているところがあるので、
ファンタジーというジャンルでは、敬遠されているところもあるのか。
もちろん沖縄とかでは受けが悪いだろうことは想像できる。
 
イーザウはドイツ人なので、
ナチスのことはかなり深く描かれている。
ちょうど、先日から、パウル・ツェラン関係のものも
久しぶりに読んでいるところなので、考えさせられるところも多い。
 
あの時代のファシズム状況のことを考えるにつけ、
やはり教育の重さということをあらためて感じる。
ぼくのようなあまのじゃくは教育を半ばけ飛ばして生きていて
そんなに深い影響を及ぼさないところがあるのだけれど、
世の大半の人たちは、学校で教えられたことというのは
かなり決定的な影響を及ぼしてしまうことになるのだろう。
 
だから、最近のように、日の丸の掲揚や君が代が
事実上強制されるようになっていて、
それがもとで教員の自殺者まででてしまう時代というのは、
よくよく注意しておかなければいけないのではないかと思う。
 
このところ仕事で、世代間の意識調査のようなものをよく参照するのだけれど、
いわゆる団塊の世代の子どもたち、団塊ジュニアと呼ばれる世代は
その前の世代に比べてずいぶん保守化しているところがあるようである。
そしてその保守化の背景にはかなりの無知がある。
自分の住んでいる国への誇りを取り戻そうとばかりに、
くさい物に蓋をしてしまっているところがあって、
その蓋を意識しているうちはまだしも、
蓋があることにさえ気づいていないということである。
プラス発想は大いにけっこうだけれども、
じっくり見据えた上でのプラスでなければ、
その場で跳躍しようと足を踏みしめたとたんに
自分の足場が崩れてしまうということにもなりかねない。
 
先のパウル・ツェランのことだけれど、
一時期ナチの党員でもあったハイデッガーとは
かなり複雑な関係があるらしい。
パウル・ツェランはハイデッガーを尊敬していたし、
ハイデッガーもツェランを認めていた。
しかしツェランの問いを正面から受け止めずに
半ば黙殺してしまったハイデッガー……。
もしハイデッガーとツェランがもう少し踏み込んで
対話できていたらということは、誰しも思うことではないか。
 
そして今、リアルタイムで起こっているさまざまなことを
私たちがひとりひとりどのように受け止めることができるか。
その視点のひとつは、「歴史」から学ぶということでもある。
 
佐野眞一の『だから、僕は、書く。』(平凡社)のなかで、
E・H・カーが『歴史とは何か』を紹介している。
カーは、「歴史とは何か」という問いに、
「それは現代の光を過去に当て、過去の光で現代を見ることだ」
という意味のことをいっているそうである。
かつて「治安維持法」という法律が施行されたときには
その法の実際的意味がわからなかったそうなのだけれど
現代からそれを見るととんでもない法律だとたいていは思うはずであるように、
同時代で起こっているさまざまな事象に
いろんな光を当ててみて判断することはとても重要なことだ。
なにかを対症療法的に押さえようとするようなあり方には
特に注意が必要なのかもしれない。
 
 

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