風日誌

森谷南人子・風景・呪縛と解放


2004.11.21

 

風日誌2004.11.21
 
・森谷南人子
・風景
・呪縛と解放
・アジールへ
 
昨日は、岡山県笠岡市にある「笠岡市立竹喬美術館」で
11月23まで開催されている「森谷南人子のすべて」に出かけた。
森谷南人子は、笠岡市生まれの「風景画家」。
とくに40歳代に描かれた大きな風景画の色彩は
まるで自然を解放するかのようなすばらしさだった。
 
風景画というのを見ていても
いまひとつなぜ描いたのかわからないことが多いのだけれど、
こういう風景画をみていると
風景となっている自然と人間や動物、
そして見ているわたしが対立的な位置から離れ、
どこか解放されていくような感じを受ける。
そしてそこに色彩が不思議な魔術で浮遊している。
というか色彩が大地から時空へと解き放たれている。
 
通常、風景を見るときに
ぼくはどういうふうに見ているのだろう。
そのときぼくはいったいどこにいるのだろう。
そんなことをあらためて自問自答してみていた。
ぼくは対立したものとして自然に対していないか。
自然を解放するどころかむしろ呪縛してはいないか。
 
自然はすばらしい!という素朴すぎる見方は別として
人間のなかの自然や自然の魔術的な側面も含め、
呪縛されているものへの深い視線を持ちたいものだと切に思う。
自分が呪縛されていることそのものへの気づきも含めて。
 
それは音楽についてもいえることかもしれない。
現代では音楽も多くデータベース化されていて
記号消費そのものになっている。
そのとき多くの人は音楽をきくといいながら
その実何をきいているといえるのだろうか。
携帯電話の着信メロディにさえなっている流行音楽たち。
 
音楽が音として記録されはじめたのは
やはりレコードによってなのだろう。
レコードに記録されたものが針によって再生される。
 
今の子どもたちには、そのレコードさえあまり知られず
デジタル化されたデータベースそのものが
音楽として消費されるようになっているのだろう。
レコードの音さえもが、とてもアーリマン的なものなのだけれど、
そのアーリマン的な度合いがエスカレートして今がある。
 
こういう時代だからこそ、
そういう音を解放する何かが必要となる。
デジタルがだめだからナチュラルに、というのだけでは
たんなる逆行、先祖返り信仰になりかねない。
ある意味で、電子が電子を解放するような、
そういう観点が必要なのかもしれない。
 
風景を解放するために風景を描くように、
音を解放するために音楽があるのかもしれない。
そしてそのためには、風景のそして音楽の「アジール」へと
ときには飛躍してみる必要もあるのだろう。
 
 

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