風日誌

とんで、わらって、とまどって


2004.10.30

 

・とんで、わらって、とまどって
・新潟地震
・星野道夫
・本当にやりたいこと
 
今夜、NHK教育テレビでたまたま
特集「とんで、わらって、とまどって」
富士見丘小学校の演劇体験
という番組を見る。
 
自由学習の時間に演劇をということで、
吉田日出子、渡辺えり子、谷川俊太郎、鴻上尚史といった方に
授業をしてもらう、その模様が編集されていた。
 
印象に残ったのが、鴻上尚史の視点。
そのことから思ったのは、やはり
子どもたちはどう答えれば受けいれられるかを知っていて
その方向で賢く教育されていて、
最大公約数的な表現に閉じこめられている。
だからそれをある種解き放ちながら
表現する可能性が必要であるということ。
 
教育に過剰適応してしまうと
自分のなかの可能性のカオスの部分まで
きちんと整形されてしまうのだろう。
そしてそのカオスはひょっとしたら
なんらかの形で爆発するのかもしれない。
もちろん、逆にまったく適応できないとしたら、
今度は別のかたちでカオスは爆発してしまいかねない。
 
ところで、まだまだ続く現在進行形の新潟地震と
台風災害の復旧作業のニュース。
 
大地が揺れるという
まるで足のつかないところに置き去りにされる
水の試練のような状態はどんなだろう。
 
世紀末という言葉が20世紀末まではよく使われたが
この21世紀の初頭、まるで世紀末のような感じもしてしまう。
戦争、社会不安、自殺者も増えるなか、相次ぐ災害。
こうしたなかで、学ぶ必要のあることはいったい何かを考えねばならない。
 
考える材料はやまのようにある。
そして今ぼくはとくに災害に苦しんでいるわけではない。
戦争に出かけているだけでもない。
日々の仕事などの小さな悩みに一喜一憂しているだけ。
 
そんななかで、今日も、星野道夫の言葉を読む。
 
	僕が若い人たちに伝えたいこと、それはなるべく早い時期に、
	人間の一生(又は自分の一生)がいかに短いものかを感じと
	ってほしいということだ。日々を生きる中、また将来を考え
	る時、生と死の接点という感覚を持ち続けてほしいというこ
	とだ。それは悲しいことでも何でもない。自分の持ち時間が
	限られていることを本当に理解した時、それは生きる大きな
	パワーに転化する可能性を秘めている。たった一度のかけが
	えのない一生をどのように生きてゆくのか、真剣に考えざる
	を得なくなるからである。
	そして、もう一つ、好きなことに出会ったなら、それを大切
	にしていってほしいと思う。「こんなことをやってみたい、
	いつかこんなふうに生きてゆきたい」ーーそんな漠然とした
	憧れを大事にしていってほしい。なぜなら、人の一生の中で、
	自分の本当にやりたいことにそれほど何度も出会うことはな
	いからだ。
	こんなことを書いている自分自身も、まだこれからだと思っ
	ている。人間と自然の関わりをテーマに、写真を撮り続けて
	ゆきたい。アラスカという土地から、メッセージを送り続け
	たい。
	あと七年で、人間は二十一世紀を迎えようとしている。不安
	な時代がやってくると思う。SFでも観念の世界でもなく、
	人間が本当に生きのびてゆけるのかを、現実に試される時代
	が待っているのだろう。どんなささやかなことでもいい。次
	の時代に希望を持ってバトンタッチできる何かを残してゆけ
	たらと思う。
	(星野道夫「アラスカからのメッセージ」1993
	 コヨーテ2号所収/P28-30)
 
今は二十一世紀を迎えてすでに数年が経っている。
子どもたちをみるとなんだかとても賢そうに見える。
とくにテレビなどに出ているような取材可能な学校の子どもたちは
ある種とても恵まれている状況にあるのだろう。
とても賢い。
大人たちの反応に機敏に対応しようとするところも見える。
模倣と処世術といったところだろうか。
そのなかで、生と死というのは
いったいどのような位置づけを持ち得るのだろうか。
 
星野道夫は、友人の死にあって、
「自分の本当にやりたいこと」への視点が喚起されたようである。
 
ぼくにとっての「本当にやりたいこと」。
ぼくにはとくにアラスカに行きたいとか
これを具体的に形にしたいといった意味での
「本当にやりたいこと」というのはないけれど、
おそらく小さい頃からずっと変わらず思っているのは、
「なぜ自分がいるのだろうか。なぜ世界があるのだろうか。」
そういう疑問につながっているように思う。
死というのもその問いにつながっている。
 
今では死をおそれるというのはあまりないけれど、
むしろそれは生を問うことにつながっていることがわかる。
死ぬよりも生きることのほうがずっと複雑で悩み深いことだから。
そして自然や社会についてのさまざまな疑問は尽きることがない。
なによりも、なぜこういう地上世界が必要なのかということは
日々考え考えしながら生きていかざるを得ない。
それはなぜ地震などの災害が起こるかということへの疑問でもある。
 
ところで、このところあまりにウィルスメールがまた多く来る。
これもまたけっこうな「災害」でもあるのだけれど、
こういうのもまた地上世界のノイズでもあるということなのだろう。
 
ほんとうに、ぼくもまさに日々「とんで、わらって、とまどって」なのだ。
 
 

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