風日誌

昨日はミカエルの日/幸田露伴とアリストテレス


2004.09.30

 

・昨日はミカエルの日
・幸田露伴とアリストテレス
 
昨日は、ミカエルの日<聖ミカエル祭>だったようである。
そんななかで、映画『陰陽師II』があったのは面白い。
出雲、スサノオ、アマテラス。
 
シュタイナーは『人智学指導原則』(水声社)のなかで
ミカエルについて、「自由」に関連して、このように述べている。
 
	106 人間の霊的進化の諸段階をとおして知性の活動にまで下降した道を、
	ミカエルはふたたび上昇してゆく。ミカエルは、叡智がその最後の段階で
	ある知性にまで下降した道をとおって、意志を上方に導くのである。
 
	109 霊的な世界関連のなかでのミカエルの活動を正しく意識することは、
	地上の人間に必要な限りにおいて、人間の自由の謎を宇宙的関連から解く
	ことを意味する。
 
	110 「自由」は事実として、人類進化の現時点においては、みずからを
	理解するおのおのの人間に直接与えられている。明白な事実を否定したく
	ないなら、だれも「自由は存在しない」といってはならない。しかし、こ
	のように事実として与えられたものと宇宙内の諸過程との間に矛盾を見出
	すことはできる。宇宙のなかでのミカエルの使命を観察することによって、
	この矛盾は消え去る。
 
	111 『自由の哲学』のなかに、意識の内容として証明された、現時点に
	おける人間存在の「自由」が見出される。ここに叙述されているミカエル
	の使命のなかに、「この自由の生成」が宇宙的に基礎づけられている。
 
「自由」というのは、ある意味でとても困難なことで、
最近では、「自由はつらい」というような論調さえあったりもするけれど、
それではやはりこうした「ミカエルの使命」と反した退行になってしまう。
もちろん、「知性の活動にまで下降した道」とあるように
ある意味で「知性」はもっとも「下降」した状態ではあるけれど、
その「下降」した状態にまずは至らなければなにもはじまらない。
「下降」さえしていないとしたら、
人間は「自由」というプロセスを経ることができなくなる。
 
ところで、このところ、シュタイナー関係では
十二感覚のほかに、『人智学指導原則』と『自伝』を読み直している。
あいかわらず発見が多いというか、すべてが発見になるというか。
 
ところで、やはり幸田露伴は面白い。
夏目漱石も森鴎外もいいけれど、
読み始めるとやはり幸田露伴だろうという気になってくる。
ちなみに、幸田露伴は夏目漱石と同い年である。
 
ちょうど、しばらく絶版状態だった岩波文庫の『露伴随筆集(岩波文庫考証篇 ) 上』と
『露伴随筆集(岩波文庫言語篇 ) 下 』が増刷されたところである。
下巻だけは古書店で見つけていたけれど、下巻が手に入れられずにいた。
読み進めるときに、難しい漢語がたくさんでてきたりするのは
最初は少しシンドイ感じもするけれど、幸田露伴の言葉の懐に入って
リズムになれてくればとても親しみ深くなってくる。
 
幸田露伴に関しては、「幸田露伴研究所ホームページ」のなかにある
「幸田露伴論」が、露伴を読んでいくなかでとても参考になる。
http://homepage3.nifty.com/rohan/ronbun/index.html
 
ちょっと意外なところから
「露伴とアリストテレス」(平成12年5月9日)の項目をご紹介してみることにする。
 
	■ 露伴とアリストテレス
	----------------------------------------------------------
 
	 ―「 雲のいろいろ」 と「 気象学 」―
 
	 露伴が若い頃からアリストテレスに興味を持っていたことはあまり知られ
	ていない。三木清は露伴と対談している時、アリストテレスの「 動物論」 につ
	いて問われ 驚いたという。
	 その頃三木はアリストテレスの「 形而上学 」 の研究に没頭していたときで
	あったので、小説家露伴に専門の哲学者すらあまり目を向けないその本につ
	いて質問され、意外に思ったのであった。 而もこの「 動物論」 は「 自然学」
	 「 霊魂論」などと一体になるもので、ハイデッガーは現代人が理解するのは
	極めて困難だといったほどのものである。これ以外に科学的述作として「 気象
	論」 「 天体論」がある。これは今日の科学者の目から見たら小学校の教科書
	よりも更に低級と批判されるほどのものである。しかしその問題の捉え方にな
	ると様相は一変する。
 
	「 動かすものは常に或るなんらかの形相( それはこれなる実体であることも
	あろうし、性質であることもあろうし、あるいは量であることもあろうが )
	を含んでいて、この動かすものが動くとき、その含む形相がその動き <運動>
	の 原理となり、原因となるであろう 」(岩波書店 アリストテレス全集 より )
 
 
	 この文を頭において次の露伴の雲についての描写を見てみよう。 
 
	 『 蝶々雲 』では、
	「 風吹く時、はなればなれになりたる大きからぬ雲の色白き、あるいは薄黒き
	が、蝶などの如くひらひらと風下へ舞いつ飛びつして行くあり。これを蝶々雲
	とは、面白くも名づけたるものかな。」
 
	 『 寂蓮の雲の歌 』では、
	「 風にちるありなし雲の大空にただようほどや此世なるらん 」といえる寂蓮法
   師の歌こそおもしろけれ。雲のはかなき、此世のたのみなきは知れわたりたる事
	なれど、かく美しく歌い出されたるを二度三度吟じかえせば、また今さらに、雲
	のはかなさ、此世のたのみなさを身にしみて覚ゆるなり。 」
 
	 この他いろいろ雲の姿を描いている。 雲の変化そのものに情のあるものでは
	ないが、その変化に応じて人間の情が変わっていくところを見ると、科学的分析
	で捉えられないものが自然の内奥にあるのかもしれない。アリストテレスの気象
	学は質料的には小学校教科書以下かもしれないが、形相的には小学生の理解でき
   るようなものではない。 露伴の雲や風や雨に接する態度は単に詩人的と言って
	終わるような性質ではない。勿論科学的という言葉で尽きるものでもない。前出の
   アリストテレスの言の通り、形相と質料の大原理が働いているのである。 人は
	雲の変化を見ながら世界のこと人生のことを思うべきであろう。
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