風日誌

森毅『異説 数学者列伝』
シュタイナー『自然認識の限界とその超克』
認識の変容のための試みを続けること


2004.09.18

 

・森毅『異説 数学者列伝』
・シュタイナー『自然認識の限界とその超克』
・認識の変容のための試みを続けること
 
森毅さんの『魔術から数学へ』をジャンピングボードに
この際、まだ読んでいなかった森毅さんの他の著作も読んでみようと
今度は『異説 数学者列伝』(ちくま文庫)を読み始めた。
やはりこういうのを高校の頃読んでおくべきだったかと思う反面、
その後の数十年の迂回こそがぼくなのかもしれないとも感じるところがある。
なにせまあ、自分が何をしているのか今もってよくわからないままでいる。
永遠の迂回というのがぼくのコンセプトなのかもしれない。
 
ところでこの『異説 数学者列伝』、最初は1973年に刊行されたものが
2001年になって文庫化されたもの。
その「文庫版あとがき」に、こんなことが書かれてある。
 
        理科ばなれなんてのも、たいして心配していない。それより、いったん
        理系になったら理系一筋、いったん文系となったら文系一筋、そちらの
        ほうがよほど心配だ。人生の物語としてなら、いろいろ変わったほうが
        絶対に面白い。それになにより、人間は一生が決まった道をたどるよう
        に思われているのは気にくわぬ。たしかに三つ子の魂が残ることもあろ
        うが、人間は化けることがあるのを前提にしなければ、教育の概念自体
        が成立しない。
 
ぼくはいわゆる通俗的には理系から発して文系に転向したことになるけれど
実際のところはほとんどそういう分類とは無縁でいる。
そもそも学校の授業とかの影響をあまり受けていないからでもある。
今仕事をしていても、今している仕事の枠組みからは
実際に逸脱して生きているのも似たようなものだ。
 
で、こうして数十年ぶりに数学のことなどを考えてすごすのも一興である。
数学といっても、どうもぼくにはいわゆるジャンルのことを
意に介さぬ傾向があるので、面白ければそれでいい。
もちろん面白いということのなかには、自分の認識を見直したり、
変換したりすることや、思いがけない発見というのも含まれていて、
そういう意味でも上記の引用のように
「いろいろ変わったほうが 絶対に面白い」のだ。
ぼくは「化ける」ことができるのを前提にしたいと思う。
 
しかし「化ける」とはいっても、化け物になりたいわけではなく(^^;)、
認識を変容させたいということである。
そういう意味でも、シュタイナーの示唆した「精神科学」というのは
そのための格好の材料になってくれていると信じている。
 
シュタイナーの講義のなかには、
そのための面白そうなものがまだまだたくさんあるのだけれど、
一見地味めなのでそこらへんはあまりまだ訳されていないようである。
 
森毅さんの数学本もそうだけれど、
これもyuccaが読んで面白いといっていた
『自然認識の限界とその超克』(GA322)のタッシェンブーフ(新書判)を
気分でちょこちょこっと拾い読みしていたら
やはりここでも現代的な認識の変容のための課題が
自然認識というテーマにおいて深く掘り下げられているようだ。
とはいえ、ドイツ語がそうすらすら読めるわけでは決してないので
ほとんど気分ではあるのだけれど。
 
しかしほんとうに久しぶりにシュタイナーの原文を
少し辞書を引きながら辿ってみると、やはりむずかしいなあと実感させられる。
こんなドイツ語をyuccaはよく訳しているものだと感心させられる。
試みに数行だけ、その第1講の冒頭を次のように日本語にしてみると
これだけで肩が凝って凝って・・・(^^;)。
 
         この連続講義のテーマは、何か哲学的でアカデミックな研究の伝統から、
        たとえば私たちの講義に何か認識論的なものあるいはそのようなものがな
        ければならないといった理由から選ばれたのではなく、時代の欲求及び時
        代の要請をーー私がそう信じているようにーーとらわれなく観察すること
        から選ばれました。私たちは人類の次なる進化のために、社会生活という
        概念、表象、つまりは衝動を必要としていますし、あらゆる立場や階級等
        の人間にふさわしいと思われるような実存を与えることのできる社会状態
        を実現させることのできる理念を必要としているのです。
 
そういえばもう何年も前に『四次元』を三講まで訳して
放置していたのを佐々木さんが継続して訳してくださったのが
ようやく今年の春に完結したけれど、
その『四次元』でさえものすごく肩が凝ったのを思い出して
やはり無謀なことはやめておくことにした。
とはいえ、やはり原文で読むとやはりシュタイナーの息づかいのようなものも
少しは感じとることができるところもあるので、
ドイツ語の勉強を兼ねてたまには目を通してみようかとも思っている・・・が
根気のないぼくなので、あまり続かないだろうなあ・・・。
 
しかしそういういろいろは試みたり断念したりもするけれど
やはり、自分の認識を常に変容させるためのきっかけだけは
日々自分に作用させなければならないという切実な気持ちだけは
失いたくないと思う。
そのための数学でもあり、シュタイナーでもあるのだから。
だから、自分の認識の囲みのなかを護るためだけに使うならば
それは数学にせよ、シュタイナーという看板にせよ、
どんなことでもあまり意味がないのだと思う。
 
 

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