風日誌

数学


2004.09.16

 

・数学
・わかっていると思っていることさえ
 どんどんわからなくなっていくという面白さ
 
森毅『魔術から数学へ』(講談社学術文庫)を読んでいる。
もう読んでいたと思い込んでいたのだけれど
ふと手にとって読み始めたところまだ読んでいなかった。
森毅さんは、yuccaの大変好きなジサマのひとりで
この本もyuccaが面白いといっていたのをあらためて思い出した。
 
ぼくは高校では理数科というところにいて
最初はいちばん好きな学科が数学で、
いちばん大嫌いな学科が国語だった。
数学はなんだかすっきりするイメージがあったのに対して
国語はその反対でどうも割り切れない。
 
しかしぼくは何が面倒だといって
計算をちまちまするのほど面倒なことはなかった。
これは漢字の書き取りとともに
ぼくの二大苦手ジャンルだったのだ。
テストなどでも計算以外は全部解けても
計算だけはなぜか間違っているというときが多かった。
だいたいが「公式」というのが覚えられなかった。
いちいち最初の原理からそのつど考え直していたので
計算するための面倒なそうした手続きには閉口した。
で、微積ばかりになってくる数学が
ほとんど計算づくめのようになったとき
案の定、数学にとことん嫌気がさすようになった。
それで今では数学のこともほとんど記憶の彼方になってしまっている。
 
とはいえ、物事の考え方や組み立て方などについては
その後もむしろ関心がどんどん深まってくるようになって
学校の勉強というのが、それと反比例して
記憶主義のようなものになってくると
当然のごとく学校の勉強はほとんど放棄してしまうようになった。
まあ、半ば以上は記憶力に乏しいぼくの言い訳なのだけれど。
 
それはともかく、数学である。
『魔術から数学へ』には特別びっくりするようなことが
書かれてあるというのではないのだけれど
久しぶりに数学というのものを見つめ直してみるには格好な教材である。
 
これを読みながら思い出したのが家庭教師で
中学生の数学を教えていたときのことである。
マイナスというのがどうしてもわからない子がいた。
たとえば5-7=-2という-2というのがどうにもわからないらしい。
 
どう説明したらいいのかわからないので、
たとえば数直線というので説明してみたところ
この数直線というのもどうにもピンとこないらしい。
0を中心として+と-に延びている数直線。
「だから、ここが5で、ここからマイナスの方へ7ついくと
ほら、-2になるだろう」
いちおううなずいてくれるのだけれど
まるで魔術を目の当たりのしているような顔つきになる。
 
結局どうしてもいろんな説明が受け入れられないようなので、
仕方なく、説明をやめて、
「わからなくてもいいから、
とにかくこういう手続きをしたらちゃんと正解がでる」
ということでいちおう正解はだせるようにはしたのだけれど、
(あまりよくない家庭教師だ(^^;)
なぜわからないのかが、ずっと謎のままだったのを覚えている。
 
しかしよくよく考えてみると
ぼくがなにかを理解していたわけではなかったのだ。
ぼくにしてもおそらくは何かの操作のようにしてしか
数学というのを理解していなかったのかもしれない。
 
そもそもリンゴが5個あるというのも
リンゴが5個あるというのを「5」という数字に抽象化するというのは
これはよくよく考えるとぼくにはほんとうのところよくわからないところがある。
時速5キロで3時間歩くと15キロメートルになる、ということで
5×3=15という式ができるとする。
しかしこれもたとえばなぜ早さという単位と時間という単位が
なぜ「掛ける」ことができるのかをあらためて考えてみるとよくわからない。
そもそも時速というのはいったい何だろうという気にもなる。
 
本書のなかにファインマンの面白い話がある。
 
	物理学者のファインマンは、カーキチのおねえちゃんを登場させて、
	微分を導入している。おねえちゃんが時速100キロで飛ばしてい
	ると、白バイのおまわりがやってきて、「時速100キロは違反で
	ある」と止めた。そのとき、おねえちゃんは憤然として、
	「アラ、あたしまだ5分しか走ってないわよ」
	と言ったというのだ。5分であろうと、5秒であろうと、0.5秒で
	あろうと、そのときの状態を1時間持続させたなら、100キロ進
	むはずだ、というのが時速100キロということだ。
	(P137-138)
 
笑い話のような話だけれど、この速度というのは
そんなに簡単な話ではないかもしれないことがわかる。
速度というのは<変化と運動>を前提にした話なのだけれど
この<変化の法則>というのは、ギリシャ的観念からいえば
「一種の言語矛盾としてあった」のだそうだ。
 
	なぜなら、<法則>は。恒常性によって支えられるものであったから。
	アリストテレスに言わせれば、変化が変化する、というのは言語矛盾
	である。このことは、位置の変化としての速度にたいして、速度の変
	化を考えることを禁じていた。
	そもそも、当時は速度という概念すらなかった。等速運動について、
	距離が時間に比例するにしても、それは時間の比t1:t2と、距離の比
	l1:l2が等しいということ・・・であって、決して、速度は距離を時
	間で割ったもの・・・のような形にはならなかった。
	(P135-136)
 
こうしたことなども、よくよく考えてみれば、
今あたりまえのように思っていることが
決してあたりまえなのではないということが身にしみてくる(^^;。
 
先の「数直線」にしても、決してあたりまえの表現ではないのである。
この数直線についても少し。
 
	小数は、直線の上に目盛られることによって、なんとなく、目盛られ
	た<点>と目盛りをのせている<線>とが、うまく調和しているよう
	な気になる。<数直線>である。おそらく、数学で最大の発明の一つ
	だろう。このことは、現代社会が、すべて目盛られた尺度によって成
	り立っているように見えるので、なんでもないことのように思いかね
	ない。だが、尺度づけられた社会の成立それ自体が、近代の成立とい
	うことであって、それが天然自然のものであるわけではない。しかも
	それは、小数の誕生と深くかかわりあっていた。それが少なくとも、
	16世紀末あたりのヨーロッパで完成したのである。
	このことは時刻の考えにあらわれている。11時59分から1分たつ
	と、0時0分になる。ところが、大晦日の翌日が、どうして1月1日
	なんてものになるのか。「0月0日明けましておめでとう」と言った
	ほうが、無からの出発といった漢字ですっきりするではないか。ここ
	で、0から点を目盛るほうが少数式数直線であって、時間区間に1月
	とか子の国とか命名するのは、少数式ではない。この種の話はよくあ
	って、最初を0階、階段を1つあがって1階としておけばよかったも
	のを、最初を1階にしたものだから、2階(階段を1つあがる)にた
	いして4階(階段を3つあがる)は2倍か3倍か、なんて話がおこる。
	ところで数直線に点として表されるのは時刻で、午前2時に午前3時
	を足したりはできない。ところが、数直線に目盛ったのを<数>とし
	ておくと、なんとなく2と3を足すことができそうに思える。ほんと
	うのところは、数として加減するときと、点として目盛るところと、
	少し間接性がある。しかし、こうして数が点として直線になっている
	感じをつかんでしまうと、いちおう<点と線>が調停されたような気
	になる。しかも、数と思えば計算までできる。
	数直線なるものも、深く考えると怪しいところもあるのだが、まずは
	<数直線>を前提にしてしまえば、無限分割についてのスコラ論義を
	避けて通れる。
	(P76-77)
 
ひょっとしたら先に話した数直線がピンとこない中学生は
数直線というある種の方便の多義性の前で
いろんなことをイメージして
その矛盾の前で立ちすくんでいたのかもしれない、と
今になって思えばなんだか済まなかったような気もしないではない。
 
 

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