風日誌

なぜ神秘学遊戯団を開いているのか?


2004.09.02

 

風日誌 2004.09.02
 
・なぜ神秘学遊戯団を開いているのか?
 
昨日は、どうしてそうなってしまったのかは?だけど、
勝手にこのMLに登録されて憤慨している方のメールが
このML宛にとどいたりもして、
メールの操作とかインターネットというのは、ウィルスをふくめ、
セキュリティとかは名ばかりというところはあるのだけれども、
いろんな意味で、結局のところは「人」なんだなあ、
というのをあらためて感じた。
 
インターネットだから、というのではなくて、
システムそのものもどこか世間的だし、
それを使う「その人らしさ」がむしろ典型的な感じでててしまう。
もちろん新しい「道具」だから
これまでにできなかったこともできるのだけれど、
だからこそ、それによって「その人らしさ」のある部分が
過剰に露出されてくるところがあるのである。
 
「匿名性」という性格もネットでは付加されやすいので、
だれも見ていないのなら好き勝手なことをしてやろう、というような
まるで低次アストラル界で起こるようなことも
起こりやすくなってくるんだけれど、
それとは別に、自分の趣味や嗜好を生かしたかたちの
とても役に立つサイトなどもいろいろでてくるわけで、
やはりネットは「その人らしさ」をクローズアップする道具である
という部分が大きいんだろうと思う。
 
ところで、そんなことを思いながら、
「余は如何にして基督信徒となりし乎 」(内村鑑三)ような
大それた問いでもないのだけれど、
なぜぼくはこんなふうにメーリングリストや
ホームページを開いているんだろうとあらためて考えてみた。
このことはよくyuccaからきかれるのだけれども、そのたびごとに
「なぜなんだろう。よくわからないけど、
直観的にやってみようとか思ったりして…」
とか答えるしかなかったりする。
 
人の役に立ちたいから、とか
いろんな人と積極的に交流したいから、とか
仕事ではないところで趣味を生かしたいから、とか
そういうのはまず希薄な要素だと思う。
ぼくはそんなに善良でも社交的でも趣味人というわけでもないから。
 
ネットをはじめたのは、NIFTYSERVEというパソコン通信で、
1991年の6月頃のこと。
それまでもパソコンを使って遊んでいたというのはあったので、
電話につないでこんなこともできるのか、というので好奇心をもった。
雑誌かなにかで紹介されてたのを見たのがきっかけだったと思う。
 
ちょうどその少し前からシュタイナーを読んで
目を開かされた思いになっていたのもあり
その方面への興味が強いのもあって、
できた会議室につけた名前は
最初は「シュタイナー研究室」だったのだけれど、
シュタイナーという名をつけることで
それがむしろ枷のようなものになると思い、yuccaからのアイデアもあって、
「神秘学遊戯団」という名称にわりとすぐに改称。
しかしシュタイナーというのがなかったら
たぶん会議室とかは開く気にはならなかっただろうというのはある。
その後、1997年にインターネットに移行、
HPとこのMLを開くことになって今に至っている。
 
で、流れとしてはそんな感じなんだけれど、
なぜ飽きもせずこんなことをしてきたかというと
正直いってよくわからないところがある。
趣味だといえばいえるのかもしれないけれど、
最初は「文章のお稽古」だとか称してあれこれ書いているものの、
文章を書くのがあまり好きな方ではないというのは今でもそんなに変わらない。
嫌いかというと嫌いでもないけれど、だから「お稽古」なのである。
 
しかしなぜ「お稽古」しなけばならないのかというのはよくわからない。
もちろん文章が書きやすくなるに越したことはないのだけれど、
こうしていろいろネットに書いて、いわば「たれ流し」たりすることには
今でもある程度の抵抗感は否定できない。
なんでわざわざ勝手なことを書いてネットに流さねばならんのだ、ということ。
どこかの雑誌や新聞などに投稿したり、
原稿を持ち込んだとかいうことはまるでなく、
そうしたいと思ったこともない。
 
だから、yuccaから「なぜそんなことをするのか」と聞かれるわけだけれど、
「意識魂」といいながら、ぼくのほとんどの行動は
良くも悪しくも「直観的」になされることが多いので(^^;、
あらためて少し意識的になって考えてみると、
「ばかなことやってるなあ」という気持ちが強くなってきたりする。
そんなことを思いながらも、なぜかこうやって「たれ流し」してしまっている(^^;。
これはやはりかなり恥ずかしい行為だともいえるのだろう。
 
で、そんなあれこれを考えたりもしながら
あえて、なぜこんなことをやっているのかという問いに
否定的要素も含め、なんらかの答えを探してみると、
 
・非社交的なぼくはだれでもいいからお話したいさみしがりなわけではない
・だからといってだれとも話したくないというわけではない
・ある意味では「良き友人」がいればいいなというのはやはりある
・「良き友人」というのはいったいどういう人なのだろう
 たんなる友だちとふつうにいわれるような人を持ちたいとはあまり思っていない
・やはりそれは「理想」を共有できる人だといえるだろう
・そういう友人を積極的に探して社交的になれるほどの性格は希薄である
・しかしこういうネットであれば、非社交的なぼくでも、
 そういう友人が、ひょっとしたら天空の星座の隅に輝いている星が
 見つかるかもしれないように見つかるかもしれない
・乙女チックにいえば、そういう星たちとのあいだで
 なんらかの星座が形成されたりすることもできるかもしれない
 
陳腐な表現かもしれないが、こんな感じなのかなと思っている。
電波望遠鏡で地球外惑星に未知の生命体を探しているようなもの。
 
しかしもちろん「あんたなんかと星座なんか形成したくない」
とか思われる方はこのML上でも数多くいらっしゃるでしょうし、
そんなことを多くの方に対して期待してはいない。
で、そのことそのものは、地球外惑星に未知の生命体を探すことが
実際のところバカげた作業であるように
ぼくのやっているさまざまをバカげたことだと見ている方も
少なからずいるだろうことは理解してはいる。
しかしなかには、長くやっているうちに、
ひょっとしたら「そういうのもいいかも」とか思われる方も
いたりするのかもしれない。
 
ひょっとしてできるかもしれない、その「星座」。
もちろんその星座は常に変化そのものなのだろうけど、
それでなにをするのかなにができるのか、というのは
またあらたな難問になってくる。
少なくともこの「星座」はいわゆる社会運動的な意味や
教育的な意味や宗教的な意味はそんなにない気はしているし、
できれば芸術的でありたいというのはあるけれど、
どこかシュタイナーが絡んでくるだろうな
というのだけは少しだけ思っていたりもする。
 
あまり驚くような理由はないのだけれど、
以上、余は如何にして神秘学遊戯団を開きし乎、でした。
 
 

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