■たきぎ能/後楽園/野村萬斎・茂山千作 今夜、岡山の後楽園でたきぎ能があり、 狂言では、野村萬斎、茂山千作の両氏が出演するというので出かける。 yuccaも体調がまだすぐれないのだが、 こういう機会もなかなかないのでなんとか出かけることができた。 夜の後楽園というのははじめてだったが、 城もライトアップされ、月も照り映えたなかでのたきぎ能は格別だった。 今年に入ってから狂言を集中的に ぼくなりに「一人エポック授業」をしていたのだけれど、 折良くこうして舞台の上での 野村萬斎、茂山千作の両氏の姿を拝めるのは 格別の感動がある。 しかも期待にたがわないその個性である。 しかしそれに対して能がぼくにはいまひとつで、 亡霊となった義経が成仏していくという設定なのに 亡霊であることもまた成仏することも どちらもいまひとつ伝わってこなかった。 やはり亡霊としてリアリティがないとだめだし、 しかも成仏するに足るだけの「解放」というか「変容」に向かう なんらかの力がそこには必要なのではないかと思う。 しかし、面白かったのは、地謡で、いわばコロス、合唱の役目。 ギリシア劇とどこかで通じている感のあるところでもある。 ■葉室頼昭『大祓 知恵のことば』 久しぶりに神道についてこのところ考えることが多い。 とくに「祓い」について。 神道が誤解されると、というか誤解されなくても多くの場合、 「祓い」というのは、排除につながってくるところがある。 祓われた存在はどこに行くのか、ということである。 シュタイナーの『第五福音書』で、 エッセネ派の清浄さの前で排除されたアーリマンとルツィフェルが 他の人々のところに行くという話がある。 他の人々の犠牲によって平安を得ているというのである。 もちろん本来の「祓え」はそうではない。 ある意味、すべての存在の変容のためのものなのだけれど、 実際にそれとして機能しているかというと疑問であるところがある。 ちょうど春日大社で唱えられているという「大祓」を 収録したものを見つけたのでそれを聞いてみたりもしている。 葉室頼昭さんによれば「祓い」というのは、 そういう漢字を当てているので誤解されがちなのだけれど 本来は「いのちがたくさん生まれる」という意味だという。 その本来については実際のところわからないところがあるが、 少なくとも祝詞にある種の不思議な言霊の力があることは実感できる。 しかもやはり清浄さとともになにかを変容させようとする力。 神道関係の方の説明は半ばどうも道徳くさいところもあって いまひとつぴんとこないところが多いが、 少なくともそこに伝えられている本来のものが 見直されなければならないことは確かだろう。 そのためにも、やはりシュタイナーの神秘学が大きなガイドとなりそうだ。 |
■「風日誌」メニューに戻る
■「風遊戯」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る