■広島という場所の力 広島には2000年から4年ほど住んでいた。 8月の6日の朝には毎年、広島市長の平和宣言を聞いた。 広島という場所にいるということは 同じ言葉でも感じる深度が違う。 場所にはやはり力がある。 今年もその日が過ぎた。 とくに声をあげてなにかを叫ぼうとは思わないが、 今日、ほぼ日で糸井重里が こうの史代『夕凪の街桜の国』や 黒木和雄監督『父と暮せば』ことを書いていたのを見た。 ぼくのなかで静かな振動が起こったのに気づいた。 そして、原爆をめぐるさまざまな人たちの物語を思い、 人の魂の永遠を思った。 人は死んでも生きるが、 今生きているということは それそのものが永遠になる。 その永遠とともにあって 安からん魂でありたいと願う。 ■変化するということ 小泉首相のパフォーマンスはなぜかいまだに国民の受けがいい。 政策云々というのは、関係者以外には ほとんど問題にされていないにもかかわらず なにかを断行しようとすることに熱を感じるのだろうか。 おそらく今日本の人たちは、 変わりたいという願望を強くもっているのだろう。 このままでいいとは思っていない。 しかしどのように変わりたいかがわからない。 だから、ばかげたことでさえ、 なにか変えようとする意志を示すだけで受けてしまう。 しかし多くの人は同時に自分を変えたいとは思っていない。 要するに、自分が「変えたい」のではなく、「変えてほしい」のだろう。 ■頭ではわかっているということ 頭ではわかっているんだけど、 というのは、要するに「やる気がない」ということだ。 変えなきゃいけないとは思っているんだけど、 というのは、変えたくないということだ。 しかしそのことを当事者にわかってもらうのはむずかしい。 それは自分のことをふりかえってみるだけですぐにわかる。 また、「考える」ということを 「頭で考える」とか「知識だけ」というふうにしか思わない人の 固定観念をやぶるのもむずかしい。 その固定観念は「死んだ思考」しか知らないということだ。 だからそういう人に、「考える」ことについて 理解を求めることもまたむずかしい。 |
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