風のメモランダム

広島のことなど


2005.8.11.Thu.

 

■広島という場所の力
 
広島には2000年から4年ほど住んでいた。
8月の6日の朝には毎年、広島市長の平和宣言を聞いた。
広島という場所にいるということは
同じ言葉でも感じる深度が違う。
場所にはやはり力がある。
 
今年もその日が過ぎた。
とくに声をあげてなにかを叫ぼうとは思わないが、
今日、ほぼ日で糸井重里が
こうの史代『夕凪の街桜の国』や
黒木和雄監督『父と暮せば』ことを書いていたのを見た。
ぼくのなかで静かな振動が起こったのに気づいた。
 
そして、原爆をめぐるさまざまな人たちの物語を思い、
人の魂の永遠を思った。
人は死んでも生きるが、
今生きているということは
それそのものが永遠になる。
その永遠とともにあって
安からん魂でありたいと願う。
 
■変化するということ
 
小泉首相のパフォーマンスはなぜかいまだに国民の受けがいい。
政策云々というのは、関係者以外には
ほとんど問題にされていないにもかかわらず
なにかを断行しようとすることに熱を感じるのだろうか。
 
おそらく今日本の人たちは、
変わりたいという願望を強くもっているのだろう。
このままでいいとは思っていない。
しかしどのように変わりたいかがわからない。
だから、ばかげたことでさえ、
なにか変えようとする意志を示すだけで受けてしまう。
しかし多くの人は同時に自分を変えたいとは思っていない。
要するに、自分が「変えたい」のではなく、「変えてほしい」のだろう。
 
■頭ではわかっているということ
 
頭ではわかっているんだけど、
というのは、要するに「やる気がない」ということだ。
変えなきゃいけないとは思っているんだけど、
というのは、変えたくないということだ。
しかしそのことを当事者にわかってもらうのはむずかしい。
それは自分のことをふりかえってみるだけですぐにわかる。
 
また、「考える」ということを
「頭で考える」とか「知識だけ」というふうにしか思わない人の
固定観念をやぶるのもむずかしい。
その固定観念は「死んだ思考」しか知らないということだ。
だからそういう人に、「考える」ことについて
理解を求めることもまたむずかしい。
 
 

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