風のメモランダム

「タイガー&ドラゴン」最終回


2005.6.28.Tue..

 

○「タイガー&ドラゴン」最終回
○ラスキンの凋落と市場価値社会
○両義性としての「バットマン・ビギンズ」
 
 
■「タイガー&ドラゴン」最終回
 
「タイガー&ドラゴン」が先週、最終回を迎えた。
なんとかリアルタイムでみたいと思い間に合うようになんとかかろうじて帰宅。
ほとんどお涙頂戴のようなノリで最後は連呼型の大団円。
テレビドラマでここまで気になったのはほんとうに久しぶりのこと。
今、初回から最終回の11回目までデータ化したものが
パソコンのなかに収められてたりする(便利なものだ)。
それにしても細部までよくできているうえに、
その細部のなかにとても熱がこもっている。
こういう熱をわすれがちな昨今、貴重な体験をさせてもらった気がしている。
宮藤官九郎、万歳!
 
■ラスキンの凋落と市場価値社会
 
松岡正剛の千夜千冊の第千四十五夜はラスキン。
ラスキンについてはほとんどしらない。
実際、このラスキン、今や忘れられた存在だという。
かつては「 ワーズワースもプルーストも、トルストイもガンジーも、
みんなラスキンに学んで「透徹した精神をもつ」ということを学んだ」のだそうだが、
それがなぜ忘れられた存在になったのか。
 
そのひとつの観点について松岡正剛は次のように言う。
 
	結局、問題は「価値」とは何かということだったのである。そこはマルクスも
	同じだったように、ラスキンもまた「価値」の源泉の発見に努めたか ったのだ。
	それがマルクスでは「労働」と「資本」であったのが、ラスキンにおいては断
	乎として「芸術」や「創作」だったのである。
   そして、
	では、いったい何がラスキンを凋落させたのか。ラスキンの倫理が古 くなったの
	か。そうではない。ラスキンの趣味が使いものにならなくなったの か。ラスキン
	の教育論が時代に合わなくなったのか。そうではない。イギリス人も 日本人も資
	本主義市場の過熱に屈しただけなのである。われわれのまわりに三人 のプルース
	トも一人のガンジーもいなくなっただけなのだ。
 
時代は、次第に「市場価値」に重きを置くようになる。
現在はまさにそのエスカレートした姿である。
すべてが市場化される。
その市場価値から自由になろうとするさまざまな動きも
そのほとんどがその裏には「市場価値」が張り付いている。
 
■両義性としての「バットマン・ビギンズ」
 
を、観たわけでも、観たいと思っているわけでもないが、
今朝の新聞評に面白いことが書いてあった。
 
アメリカの娯楽映画にしては非常に複雑なストーリーだという。
「バットマン」が勧善懲悪的に「悪党を倒す」だけではなく、
「悪党」である「陰の組織」も「バットマン」も、
この世の中がこのままにしておいてはいけない、
といういわば世直しの思想をともにもっているが
その手段と対象が異なっているだけだというのである。
 
いわば、善と悪とはコインの裏表ということなのだろう。
「良かれ」は「悪しかれ」の裏返し。
キレイはキタナイ、キタナイはキレイ。
老子のいうように美しいが醜いをつくるわけである。
だから、自分だけをキレイにしておこうということは
そのことそのものが、キタナイを肯定してしまうことにもなる。
 
 

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「タイガー&ドラゴン」最終回


2005.6.28.Tue.

 

■「タイガー&ドラゴン」最終回
■ラスキンの凋落と市場価値社会
 
 
■「タイガー&ドラゴン」最終回
 
「タイガー&ドラゴン」が先週、最終回を迎えた。
なんとかリアルタイムでみたいと思い間に合うようになんとかかろうじて帰宅。
ほとんどお涙頂戴のようなノリで最後は連呼型の大団円。
テレビドラマでここまで気になったのはほんとうに久しぶりのこと。
今、初回から最終回の11回目までデータ化したものが
パソコンのなかに収められてたりする(便利なものだ)。
それにしても細部までよくできているうえに、
その細部のなかにとても熱がこもっている。
こういう熱をわすれがちな昨今、貴重な体験をさせてもらった気がしている。
宮藤官九郎、万歳!
 
■ラスキンの凋落と市場価値社会
 
松岡正剛の千夜千冊の第千四十五夜はラスキン。
ラスキンについてはほとんどしらない。
実際、このラスキン、今や忘れられた存在だという。
かつては「 ワーズワースもプルーストも、トルストイもガンジーも、
みんなラスキンに学んで「透徹した精神をもつ」ということを学んだ」のだそうだが、
それがなぜ忘れられた存在になったのか。
 
そのひとつの観点について松岡正剛は次のように言う。
 
	結局、問題は「価値」とは何かということだったのである。そこはマルクスも
	同じだったように、ラスキンもまた「価値」の源泉の発見に努めたか 
ったのだ。
	それがマルクスでは「労働」と「資本」であったのが、ラスキンにおいては断
	乎として「芸術」や「創作」だったのである。
 
そして、
 
	では、いったい何がラスキンを凋落させたのか。ラスキンの倫理が古 
くなったの
	か。そうではない。ラスキンの趣味が使いものにならなくなったの 
か。ラスキン
	の教育論が時代に合わなくなったのか。そうではない。イギリス人も 
日本人も資
	本主義市場の過熱に屈しただけなのである。われわれのまわりに三人 
のプルース
	トも一人のガンジーもいなくなっただけなのだ。
 
時代は、次第に「市場価値」に重きを置くようになる。
現在はまさにそのエスカレートした姿である。
すべてが市場化される。
その市場価値から自由になろうとするさまざまな動きも
そのほとんどがその裏には「市場価値」が張り付いている。
 
■両義性としての「バットマン・ビギンズ」
 
を、観たわけでも、観たいと思っているわけでもないが、
今朝の新聞評に面白いことが書いてあった。
 
アメリカの娯楽映画にしては非常に複雑なストーリーだという。
「バットマン」が勧善懲悪的に「悪党を倒す」だけではなく、
「悪党」である「陰の組織」も「バットマン」も、
この世の中がこのままにしておいてはいけない、
といういわば世直しの思想をともにもっているが
その手段と対象が異なっているだけだというのである。
 
いわば、善と悪とはコインの裏表ということなのだろう。
「良かれ」は「悪しかれ」の裏返し。
キレイはキタナイ、キタナイはキレイ。
老子のいうように美しいが醜いをつくるわけである。
だから、自分だけをキレイにしておこうということは
そのことそのものが、キタナイを肯定してしまうことにもなる。
 
 

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