○情報という名の麻薬の前で ○梨木香歩『ぐるりのこと』 ○老子 ■情報という名の麻薬の前で 情報という日本語をつくったのは確か森鴎外。 クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳する際、 Nachsicht(敵情報知)の訳語として使ったのがはじめという。 それはともかく、こうして急速にコンピューターの情報処理が高速化し メディアから発される情報が増えてくると、 その情報をいかに選別できるかが重要となるのはいうまでもない。 情報の多さというのは、情報の質ではない。 これはきちんとおさえておく必要がある。 量が質に転化したりはしないのだ。 つまりたくさん情報をもっているということは それをちゃんと使いこなせているということではないし、 まして質の良い情報をきちんと得ているということでもないのである。 ほとんどの場合、例の3Sのごときで、 気晴らし、気散じ、欲求の処理などのために使われる。 情報というのは、ある意味で麻薬そのものだともいえるのだ。 だからその使い方を過つと、とんだことになってしまう。 しかし、毒と薬とは紙一重といえるように、 その見極め方、使い方次第では、大変貴重なものでもある。 ■梨木香歩『ぐるりのこと』 この「ぐるりのこと」というタイトルの由来は、 京都周辺で開催される茸の観察会の指導者でもあった吉見昭一さんの 「最近の子どもたちは身の回りのことに興味を持たなくなった。 こういう菌糸類は身の回りにたくさんあります。 自分のぐるりのことにもっと目を向けてほしい」という言葉からだという。 梨木香歩はこの「ぐるりのこと」に興味があるという。 おそらくその「ぐるりのこと」への興味があるからこそ、 いわば大所高所から降ってくるものへのしっかりとした抵抗力を持つことができる。 この逆ではやはり都合がわるい。 天下国家を論じて、「ぐるりのこと」が見えない人のなんと貧しいことか。 ぼくも、あくまでも基本を「ぐるりのこと」に置きたいと思う。 シュタイナーが、手足の不器用な哲学者はいない、というように、 ぼくは手足をしっかりつかって哲学者にもなれる準備を怠らないようにしたい。 ■老子 ひょんなことからひさしぶりに老子を読み直した。 老子は高校の頃、いちばん気に入っていて、 文庫本をいつも持ち歩いていたことがある。 その老子を、中国語も日本語もネイティブであるという王明という人が 新しい感覚で日本語にしたという『老子/自在に生きる81章』(地湧社)を 紹介されたのがきっかけである。 あらためて、かつてはあまり思っていなかったことを感じた。 老子といえば、無為自然の道で、とてもピュアなイメージもあったのだけれど、 今回読んで感じたのは、むしろ老子の老獪さである。 その老獪さというのは、もちろん否定的な意味ではない。 むしろ、さまざまな経験や認識を経た上で、 ある意味、子どものような原初的なピュアさを獲得しえているということ。 だから、老子の言葉には、非常な逆説的な示唆がたくさんある。 最初から、「道う」ことは、常なる道ではない、ということから入る。 ちなみに、「道う」というときの「道」の漢字は、白川静さんによれば、 異族の首を手に持ってその呪力で邪霊を祓い清めて進むことを導くといい その祓い清められたところを「道」といったのだそうだ。 ある意味で、言葉化するというのは、カオスやその及ぶ力をスポイルすることで なにかを整然としたものにすることなのかもしれない。 だから「道う」というのは「常なる道」ではないのである。 そのように、老子の言葉は、無為自然というものの、 大変老獪で、一筋縄では読めない。 いやあ、いい、爺様だと思う。 |
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