風のトポスノート569

 

「問ひ」の発明


2006.1.1.

 

	「答へを予想しない問ひはなからう。あれば出鱈目な問ひである。従つて、
	先生の問ひに正しく答へるとは、先生が予め隠して置いた答へを見附け出す
	事を出ない。藤樹に言はせれば、さういふ事ばかりやってゐて、『活発融通
	の心』を失つて了つたのが、『今時はやる俗学』なのであつた。取り戻さな
	ければならないのは、問ひの発明であって、正しい答へなどではない」と。
	小林秀雄は自分の「問ひ」を発明して行つた。『様々なる意匠』はすでに
	「問ひ」の発明であり、選考委員が予め予想している「答へ」に答えような
	どという気は全くないのである。そしてその「流儀」は一貫してつづく。
	「トルストイの家出論争」もまた「問ひ」の発明であり、自ら「問ひ」を発
	明し、その「答へ」などはじめから念頭にない。自ら「問ひ」を発明し、そ
	の答えを発見しようとし、「独り『自反』し、それにまた「新たな問ひを心
	中に蓄へる」。それは際限がない。
	(山本七平『小林秀雄の流儀』PHP文庫/1994.6.15.発行 P.289)
 
このテーマはすでに繰り返しとりあげたことがあるのだが、
年頭にあたって、再確認のためにも、
またそれが小林秀雄の「流儀」であるということを確認するためにも、
とりあげておくことにしたい。
 
世には、「答へを予想」する「問ひ」ばかりがはびこっている。
先生が生徒に提出する問題には、「正解」があり、
「解答集」がすでに用意されている。
そして、その答え方如何を問わず、「正解」以外の答えは「間違い」になる。
従って、生徒であろうとするならば、あるいはマジメに「勉強」しようとすれば、
みずからを解答マシーンにすることでしか方法がない。
つまりは、すでにあたえられた価値基準にもとづいて
「結果」を出すことが養成されている。
 
もちろん、「処世」の方法としてのそれを「間違い」であるとはできないだろうし、
もし、各人の能力において、処世と真に問う力を併存させえるならば、
それはそれで優れた生き方だといえることができるのかもしれない。
しかしそれほどの天才的な能力を持ち得ないとし、
さらに「処世」を事とするとしたならば、
その人間は真性の「問い」をみずから放棄することになる。
つまり、「問い」を発明することができなくなる。
 
すでに用意された「問い」、
つまり「答え」のある「問い」しか持ち得なくなる。
そして、「そういうものなのだ」という
すでに決まり切ったマシーンのようにしか
みずからの認識の枠組みを持ち得なくなるわけである。
 
世にある多くの問いは、
テレビのクイズ番組にでてくるような問いでしかない。
そして、そうでないとしたら、
その「問い」はあまりに抽象的で
それに対して提出されるであろう「答え」は
なんともはや稚拙なものになってしまう。
たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
テレビ番組にされると、結果的にすべての営為が
「母を求める」ということにムード的に集約されてしまったりもする。
つまり、「問い」を発明するという能力は要求されず、
多くの人のなかにある、欲しがっているか、またはイメージしやすい着地点に
行き着けるように誘導してあげるのが、さまざまな営為の中心テーマになる。
 
小林秀雄は、そして山本七平は、
ソクラテスとパイドロスの対話を引き合いにだしてもいるが、
ソクラテスの対話は「問う」というプロセスそのものなのだが、
パイドロスにとって、それは処世的に「結果」を出すためのものでしかない。
つまり、人々は、わからないことをわからなくさせてほしいわけではない。
わかった気分にさせてほしいだけなのだ。
 
そしてわかった気分になるということは、
ある種の問いにすでに答えが気分良く用意されているということなのだ。
問いなど発明したくもない。
そんなよけいなものは、不安をかきかててしまうだけのこと。
 
しかし、このトポスでそうありたいと思っている姿勢は、
つねに「問いを発明」しようとするものでありということである。
もちろんそれは魂を打ち振るわせるほどのことであり
そうたやすくいつも可能なことでもないのだけれど、
そうありたいと思わなくなってしまったとしたら、
すでにこの場所の存在意味はなくなってしまうだろう。


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