風のトポスノート568

 

待つ力


2005.12.29.

 

	心から興味がもてるもの、
	次のアイデンティティの核になるほど
	自分の心をとらえるほどのものなど、
	人生の中で、そんなに何回も出逢えるものではない。
	第一、以前、自分の心をとらえていたもの、
	それに出逢うまでに、いったい何年かかった?
	(・・・)
	「出逢う」には、
	自分の内側の準備と、外からの機会、
	両方が必要で、
	この両方がピタッとそろう、
	「これだ!」と思える出逢いなど、
	1年のうちに、そうそう何回もあるものではない。
	私は、
	「これだ!」というものを待っていたんだと思う。
	別にビックチャンスとか、そういうことではない。
	ほっといても自然に自分の「心が向く」ものを。
	(・・・)
	『三年寝太郎』の童話があってよかった。
	ほんとうに心の支えだった。
	「ものはひらいた手でしかつかめない」
	いま、びっしり書き込んだスケジュール表を見て思う。
	来年のスケジュールに、
	出逢いを呼び寄せる空白はあるだろうか?
	来年のスケジュールが、心の向くほうへ、
	心のペースで、刻まれていきますように。
	(山田ズーニー 『おとなの小論文教室』Lesson280/待つ力
	 ほぼ日刊イトイ新聞 2005-12-28-WED より)
 
なにかを「する」ということよりも、
「待つ」ということのほうがずっと難しい。
 
「ものはひらいた手でしかつかめない」
けれど、なにかがつかめるとはかぎらないし、
それはなにかをつかむということではないのかもしれない。
 
ただ、待つ。
自分の内になにかを準備し続ける。
その準備は決して何かの「ため」ではないのかもしれない。
「寝太郎」のままがずっと続くかもしれない。
 
しかし、その「寝太郎」というのが
ただ空虚であるというとしたら意味をなさない。
ある意味で、達磨が面壁しているようでなくてはならない。
 
ぼくの場合も、まだまだ「面壁」は続いている状態のようだけれど、
少なくとも、「心から興味がもてるもの」にだけは出会えることができた。
しかしその出会いまでの面壁まで、鬱々としはじめてからでさえ、
二十年近くが必要だったように思う。
ひょっとしたら、その鬱々が一生続いていたのかもしれない。
幸いにして、今は「心から興味がもてるもの」に出会え、
自分の向かう方向だけは見失わないでいられそうである。
 
しかしその方向づけのためには、
今回の生だけではなく、無数の生が必要だったのだろうなと思う。
それが何千年であれ、何百万年であれ、何十億年であれ、
それをはるかに超える悠久の時間が必要であったとしても、
「待つ」ということ。
それがなくては、何も得ることはできないのだろう。
 
そして、その「待つ」ということは、
それそのものが、「愛」そのものでもあるのだ。
そのことがようやくわかりかけてきた気がしている。
つまり、「待てない」ということは、「愛の欠如」なのだ。
 
待てないで、なにかをしてしまう。
そのことで失ってしまうことのなんと大きな錯誤か。
「ものはひらいた手でしかつかめない」
準備のできないままになにかをしてしまうということは、
いつも両手を塞いでいるということ、
コップの水を満たしたまま、何も注げなくなっていること。
心のなかも、いつもなにかを詰め込んでいると、
どんなものも心のなかには入ってくる余地がない。
 
「待つ」ことは難しい。
自分を待つこと、そして人を待つこと。
面壁しながら、限りなく積極的に待ち続けること。
そのことを忘れたとき、愛はその両手でつかめず、
こぼれ落ち、見失ってしまうことになる。
 


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