初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、 すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になること も面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。二度目に通る とき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩くの だ。 (…) ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。 いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもったこ とがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身 を見失う不安のことなのかもしれない。ここはどこ? というひとつ の疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな 気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとし た、異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思う ことがある。見慣れたひと、見慣れた土地、いつもの習慣によって、 かたちづくられた日常。それを不意に見失って、道の中央でボーゼン としてみたい。迷子になることを恐れながら、同時に、期待する心が ある。その心とは、いったい、なんだろう。どこから生まれてくるの だろうか。繋がらなければ生きてはいけないのに、繋がれば、その絆 を切ってしまいたくなる。迷子というのは内的な危機なので、幼児の ように泣き声をあげない限り、迷子であるかどうかは外側にはわから ない。そう思って改めて眺めてみると、生きているひとが、わたしも 含めて、みんな迷子に見えてくる。 (小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』岩波書店/ 2005.11.25発行/P15-18) この道はいつか来た道・・・。 知っている道は、安心。 その道がどこにつながっているかわかっているからだ。 そして、危険な道は通らないということもできる。 安心できるその道を繰り返したどりながら、 多く人は安心できる範囲のなかに自分を置きたいと思う。 未知の道は、不安である。 その道がどこにつながっているかわからない。 「ここはどこ?」という場所で迷子になってしまうかもしれない。 知らない場所で私はときに自分を見失う。 いや自分を見失うというよりは、 既知の関数から外れて 思いがけない答えがそこに導き出されることになる。 ふだんの自分は、既知の関数のなかで、 「想定内」の自分という演技ができる。 しかし「想定外」の自分がそこに現れたとき、 人は、見知らぬ自分をそこに見出すことになるだろう。 それはかぎりない不安である。 が、同時に、未知の自分を見たいという気持ちも持ち上がってくる。 「迷子」は非日常への扉、そして異界への誘惑でもある。 既知の未知とそれがつくりあげる場のなかで生きようとする人にも、 ほんとうはすぐそばに、そうした非日常、異界は広がっている。 そしてそれにまったく気づいていないわけではない。 しかし無意識にせよそれを避けようとしているだけなのだ。 迷子になりたくないという保身。 見知らぬ自分を見たくないという恐れ。 たとえば、それまでは整数の計算の範囲だけで世界は構成されていた。 そこに小数点を持ち込んだり、マイナスを持ち込んだりすると それまでその世界のもっていた自己完結性は壊れてしまう。 世界は、その根底で規定しているものを拡張することで、 まったく未知のものをそこに現出させてしまう。 マクロへ向かっても、ミクロに向かっても、世界は変容していき、 それまで見ていた景色はみるみる変容していく。 そしてそれが迷子になることではなく、 むしろそれまでのほうが、自分がほんとうは迷子だったにもかかわらず それに気づいていないだけだったのだということがわかるかもしれない。 さて、その道は・・・。 |
■「風のトポスノート501-600」に戻る ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る ■神秘学遊戯団ホームページに戻る |