風のトポスノート566

 

始まりと終わりについて


2005.12.19.

 

	「これじゃ、きりがないぞ」
	そのとき彼は、非常に重要なことに気付いたのだった。
	「でも、きりってなんだろう?終わらせるっていうのは、
	どういうことなんだっけ?」
	考えれば考えるほど、彼は自分の書いているものが「終わ
	る」とは、どうしても思えなかった。そもそも「始まり」
	を書いた覚えもない。
	(吉田篤弘『フィンガーボウルの話のつづき』新潮社/P134)
 
生まれてくるということは、死ぬということだ。
それは物語が始まり、そして終わることに似ている。
 
ほんとうは、生まれてくることもないし、
死ぬこともないのかもしれないのかもしれないけれど、
こうしてたしかに(幻のようなものではあるけれど)生きているから、
死という終わりを迎えることになっている。
 
なにかを始めるということは、
終わることを選ぶということだから、
なにもしないでいようと思ったりもするけれど、
問題はそういうところにはおそらくない。
 
問題は何かをしないということで解決するのではなく、
なにかを寸法で測らないようにするということなのかもしれない。
または、完成しているかしていないという基準をもたないようにすること。
 
荘子にでてくる「混沌」の話があるが、
混沌に穴をあけたりしていると混沌は死んでしまうというのもそれに似ている。
私たちは、なにかを測ったり点数を付けたり基準を設けたり比較したりすることで、
なにかを始めたように思いこんでしまったりもするのだけれど、
ほんとうは、そのことでだいじななにかを殺してしまうのかもしれないのだ。
 
もちろん、何かを始めてはいけない、測ってはいけない、云々なのではなく、
それらを「方便」としてみて、絶対化しないことが大切なことではないか。
 
世界は、こうして、たとえ大いなるマーヤとして現れているが、
それを否定するというよりは、それをマーヤとして見つつ、
そこから自由であろうとすることなのだ。
そして、自由には「きり」なんかない。
アルファでありオメガであり、
かつ始めなき終わりなき精神のなかを
遊戯しつつ泳いでゆくことなのだ。
 
始めと終わりは直線の呪縛。
そうではなく、むしろ垂直にその直線から自由であれ!
 


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