風のトポスノート565

 

内面世界の内と外


2005.11.12.

 

	『フーガの技法』を聴くとき、もう一つ自分で経験したことで申し上 げますと、
	フーガを聴くときの面白さの一つは、音の世界の中に内と外がある感じがする
	ことです。…
	あるフーガのメロディの中に没頭しているとき、それが自分の着物みたいに、
	そのメロディの中に今自分は浸っています。そうすると他のメロディとか、他
	の音の動きが、外に聞こえてくるのです。昨日来ていた着物は、思い出として
	蘇らせることはできますが、今自分の身に付けることはできません。 ですから、
	イメージの世界の中では外に現れます。思い出すというのは、心の無意識の中
	にあった内なるものを意識の表面に、まるで外なるもののように取り出してく
	るということです。内面世界にも内と外があるのです。
	内面世界の中の内なる部分に身を浸らせていると、別のイメージはその外に見
	えてくる、という感じです。『フーガの技法』のすごいところは、ソプラノで
	もアルトでもテノールでもバスでも、その声部の音は外に聞こえてく るのです。
	今自分が夢中になって聴いている声部は、内部の音になって聞こえてくるので
	す。ところが今、バスを聴いていたのに、急にソプラノのメロディラインに心
	を移しますと、今まで聴いていたバスのメロディの流れが外に聞こえてくるの
	です。何かそういう内と外の関係が、対位法の音楽を聴いていると、すごく生
	々しく感じられて、人生のある重要な秘密に触れたような感じがするのです。
	われわれの生活でも、やはり自分自身という内なるものがおり、その一方で外
	にはいろいろな人がいます。或る人は身近なところにいますし、もっと外にも
	誰かがいて、いつでも内と外が複雑にからみ合っています。そのように、フー
	ガの音楽の中でも、内と外がすごく複雑な関係となって響いてきて、しかも何
	時でも別のところに移れるのです。移ると、今まで自分が内だと思っていたも
	のが外になるのです。神秘学の認識の究極は、内なるものが外のものになり、
	外のものが内になることだと思いますが、フーガを聴いていると、それが直接
	実感できるのです。
	(高橋巌『ディオニュソスの美学』P29-31)
 
私たちの内面にも内と外があり、その内と外は固定してはいない。
別の言い方でいうと、意識の表に現れている部分と
そうでない部分は絶えず入れ替わっている。
 
そのことを意識してみると、
自分の心の世界というのがずいぶん重層的で複雑であるのがよくわかる。
心の世界はある意味それそのものが劇場のようなもので、
「私」の内面はその劇場そのものであると同時に
その舞台を観ている観客でもある。
 
その観客としての私の視線は、カメラの動きのように、
全体を俯瞰しようとしているときもあれば、
ある登場人物にクローズアップしているときもある。
 
また、その劇場そのものも重層的で
リアルタイムで進行しているのではなく、
時間をやすやすと超えて重層化している。
過去はもちろんのこと未来のイメージもそこには飛び交っている。
 
別の言い方をすれば、内面世界の重層化した劇場を
私の意識は「検索」しながら浮かび上がらせている。
 
ここまでが、通常の内面世界のありようだが、
さらに、通常私たちの外面、外的世界だとされているもののことを考えてみる。
果たしてそれを単に外界だといえるだろうか。
 
私たちは、たとえば花を見る。
するとその花のなかに私がいるといえないだろうか。
言葉をかえていえば、そのとき私と花は別のものではなく一体となっている。
そしてそれが二次的な意味での内面世界にもなっている。
私たちの意識の向けるすべては
ぐるりと裏返って変容した内面になっているのだ。
 
そういう視点に立ってみると、
私という存在の重層性というのはますますフーガの技法のようになってくる。
そして、私という存在を豊かなものにするのは、
そのめくるめく劇場そのものの芸術的な豊かさだということもできるだろうか。
私という存在が、そのままソプラノになり、アルトになり、
テノールになり、バスになり、もちろんさまざな楽器の演奏にもなり、
指揮者にもなり、舞台割にもなり、さまざまな観客にもなり、
舞台裏のさまざなスタッフにもなる。
 
さて、そこで重要なのは、それがどのような芸術性を発揮しているかというこ とだろう。
J.S.バッハの『フーガの技法』は素晴らしいが、はたして私の「技法」やいかに。
 
*これを書きながら聴いているのは、
 高橋悠治演奏によるJ.S.バッハ『フーガの技法』
 


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