風のトポスノート564

 

匿名性


2005.10.5

 

   僕にとって、日中戦争というか、東アジアにおいて日本が展開した
  戦争というのは、ひとつのテーマになっています。知れば知るほど、
  日本という国家システムの怖さのようなものが、時代を超えてそこに
  集約されている気がする。政治的なことはあまりいいたくないが、そ
  こから学ぶものは多いだろうと思います。
  …
   いちばん怖いのは体制がこのような原理主義的な行動に対抗するた
  めに、同様の要素を取り入れていくことです。
  …
   仮説にすぎないが、僕の小説は社会的に一種のカオス状態にあると
  ころで、比較的よく読まれるようです。ということは、日本はカオス
  状態という意味で先進国であり、日本人はカオスや矛盾とともに、そ
  れを自然なものとして生きてきたのではないか。
  …
   揺れ動いている社会においては、静止したものを打ち立てようとし
  ても、説得力がない。ともに揺れ動いて揺れをのみこんでしまうもの、
  両方が揺れながら関係を変えて動くもの、そのほうがリアリティを出
  す。それは、僕の書き方でもある。
  …
   不思議にも、読者が感じていることは変わらない。この社会の中で、
  どうやって少しでも自由に自分を維持して、正気を保って生きていけ
  るか、ということです。違うのは、今はフリーターになれること。
  (村上春樹が語る・下「混沌にある現実性」
   朝日新聞2005.10.5.付朝刊より)
 
禅坊主が真昼に灯りを灯して
「どこかに灯りはないかあ」と叫びながら街をかけまわる。
もしくは、あたまに草履をのせて街を歩き、
「あのひとはちょっとおかしいね」と人々に口にされる。
 
「正気」を保っているための方法はさまざまだが、
もちろんそうした禅坊主のような極論は
おそらくは現代では方法論的に少し違うだろうという気がする。
 
いちばん怖いのは、自分が「正気」になろうとして、
なにかを固定的に教条化してしまうような方向だろう。
「原理主義的な行動に対抗するために、同様の要素を取り入れていく」ように。
正しいか正しくないかを決めて、
正しいものを推し進めるというのは、一種の狂気であり、
それは社会化するときに往々にして凶器になるのだから。
 
ある「現実」に向かって直線的に走れば
それで解決するという状況では、
おそらく村上春樹は読まれない。
「現実」そのものがカオスのように現出してくる。
それが村上春樹が読まれ続ける現代の状況だといえるのではないか。
 
カオスのなかで、固定点・静止したものを妄想しないで、
「正気」を保っているための方法論。
それは揺れ動くことだと村上春樹はいう。
おそらくそれは、「中」なる方法だともいえる。
この「トポス」では、それを「遊戯」とも表現している。
 
それは「現実」を否定することでも逃避することでもなく、
むしろそれを包括的にとらえようとする試みのひとつでもある。
仏陀は中なる道として「八正道」を説いたという。
それは決して直線的なわかりやすいノウハウではない。
 
そういうとてもむずかしい「中」なる方法を
認識の怠惰によって放棄するときに、
人は「これが正しい!」と御旗を掲げ、
自分だけを「正気」だとして「狂気」に向かう。
 
昨今の日本の状況はきわめて危うい。
かなりバランスを崩して雪崩れようとしているところがある。
そんななかでは、「ともに揺れ動いて揺れをのみこんでしまう」
というありかたをとらざるをえないところがある。
 
決して急いで「灯り」のように見えるところに
安易に駆けていかないこと。
それは目くらましのために放たれたフラッシュかもしれない。
灯りを放ったかに見せかけて
夜明けを擬装したお化けの話もある。
せっかく結界をはったお札も
扉をあけたとたんに無効になる。
そして、パクっと食われてしまう。
もちろん、実際に食われてしまうのではなく、
自分が「正気」なのだと思いこんでしまう。
ああ、恐ろしや。
 


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