風のトポスノート563

 

匿名性


2005.9.18

 

   互いの顔が見えないと、人間というのは、どうやら失礼になるらしい。
  顔が見えると言えないことも、顔が見えないと言えるようになるらしい。
  しかし、もしもそれが、そも言われて然るべき正しいことばならば、顔
  が見えようが見えなかろうが、言えるのでなければおかしい。顔が見え
  ないから言えるというのは、そも正しくない言葉である。そういう正し
  くない言葉を大声で怒鳴り上げているのは、多くの場合、匿名の人であ
  る。ゆえに、これは完全に卑怯な行為である。
  (池田晶子「パソコンに罪はない」
   『勝っても負けても/41歳からの哲学』(新潮社)所収)
 
ネットも長くやっていると
いろんな場面にでくわすのだが、
たしかに「匿名」であるがゆえに
顔が見えたら言えないだろうことを言う人というのは確かにいる。
そしてそういうことがあるからということで、
匿名=悪という図式をつくってしまっている人もいる。
 
ネットだけではなく、
匿名で電話やFAXや郵便などを送りつける馬鹿者も後をたたない。
しかしそれらは、メディアそのものの責任ではない。
刃物を使って人を殺したら、刃物が悪いというわけではないように、
責任はそれを実際に行っている人にある。
そういう人は、どんなものも利用できるものがあれば利用するのだろうから。
 
ぼくのばあいも、こうして長くネットをしていて、
「然るべき正しい」を言っているというような自負は決してないものの
(往々にして馬鹿げたことを言っていることもあるわけで)
顔が見えようが見えまいが関係なく
言えることしか言ったことはまずないつもりである。
もちろん、面と向かったら、こうした書き言葉的な表現ではなく、
それなりの表現にはなるだろうが、そのくらいの違いしかないはずだ。
実際、匿名といっても、隠しているわけではなく、
ただKAZEというハンドルネームを使っているというにすぎないわけだし、
この14年間ほどそのハンドルネームもほとんど変えていないし、
アドレスも、パソ通のときは1種類、
ネットになっても、この基本アドレスと、
仕事場でこのアドレスが使えないときのアドレスの2つしかない。
 
しかしネットというのは、確かに、
その「匿名性」を使った「(悪)知恵」を行使しやすいメディアである。
必要性というのではなく、やたらたくさんアドレスをもって、
自分の「匿名性」を生かすための使い分けをしている人も多くいるようだ。
 
それはかならずしも、「不正」とかいうことには結びつかないが、
ネームを変えることによって、安易に自分のイメージを変える、
変身するという不思議な願望を満足させようとしたりもする。
それは北斎や馬琴が生涯の間数多く名前を変えたというのと
まったく無関係ではないものの、そういうこととは別の
ある種の心の闇のようなものをそこに流し込んでいるということは
多かれ少なかれあるかもしれない。
 
人は、「自分をこのように見てもらいたい」という願望をもっていて、
そのために「顔が見えない」ということが利用できるとなると
それをなんとか利用しようということになるのだ。
匿名性のもとに、誹謗中傷などをするという性行も、
今のありていの自分というのを棚にあげることで成立することになる。
どちらも、自分のなかにあるさまざまなカタチ、さまざまな濃淡の「闇」を
「匿名性」を利用して放り出してしいまおうとする実力行使である。
 
しかしその実力行使によって、自分のなかの「闇」が放り出せるかというと
実際のところはその逆で、「闇」を放り出すことで
ますます自分のなかの「闇」は深くなっていくことになるのである。
そのことは多くの場合、気づかれていないだろうが、
その深くなっていく「闇」がある「境域」を超えたとき
その人の「闇」はおそらくは具体的なかたちをとって
その人の前に立ちはだかることになるだろう。
まるで「境域の守護霊」のように
その人の「本当の顔」を「こんな顔かい」というふうに見せつけるように。
 


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