「何ひとつ書くことはない」ってぼくが書いたのはいつごろのこと だったかなあ。(…) 自分の文体に飽きるっていうか、自分の文体が鼻につくっていうか、 そんなことないですか?書いている意味内容よりも、口調、語り口、 声みたいなもの、そこに一番書き手の「私」のどうしようもない全 体が現れてくるとぼくは考えているんだけれど、その文体なるもの を意識してとらえるのはほんとうに難しい。 (谷川俊太郎「帰ってこないで」 『四元康祐詩集/現代詩文庫179』所収/P149-150) 「何ひとつ書くことはない」というよりも、 「何ひとつ書けることはない」といったほうが ぼくの場合は正確か。 もちろん書く「べき」ことなんか何一つないんだけれど、 その「べき」がないからこそ、なんとか書いているのかもしれない。 実際、仕事で「べき」を自分でつくりだすときの あの深海を死ぬように彷徨っている感覚は嫌だな。 まあ、仕事の場合、「文体」は その要請されたものによっておのずと決まってくるし、 別に主体は、というか「語り手」は「ぼく」じゃないからいいんだけど。 ほんとうに、 こうして書いているときの 自分の「文体」、 ほんとうに「鼻につく」。 鼻につかないことはまずない。 でも 「何ひとつ書くことはない」し 「何ひとつ書けることはない」にもかかわらず こうして「作文のおけいこ」をしているのだから 「おけいこ」なりの その都度の変化球だけは たくさん種類をもっていたいと思う。 少なくともそんな剛速球なんか投げられない。 しかしストライクゾーンにちゃんと入ってるのかな。 たぶんいつも甘いへろへろ球を投げてしまって スコーンと打ち返されるような感じなのだろう。 それもよし。 どうしようもない私が歩いている。 うしろ姿のしぐれてゆくか。 (山頭火) |
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