風のトポスノート561

 

雑音としての饒舌


2005.7.6.

 

	これは、「雑音」だな。
 
	ひとことで言えば、私は、記事の内容に関して、
	無意識の部分で、なにか、うしろめたかった。
	まったく人を攻撃するような内容ではなかったのに、
	無意識の部分の何かが、
	攻撃を受けたような感じがしていた。
 
	口を閉じて、静けさに耳を澄ますことで、
	それが、自分の身に、ひたひたと迫ってくる。
	その音から逃れようとして、
	私は、自ら「雑音」を立てていたのだ。
 
	沈黙への抗い。
	黙すれば、聞かねばならぬ音がある、
	気づいてしまうことがある。
	それに抗い、紛らす、自分がいた。
 
	こういうときは、苦痛だけど、
	いったん、発言スイッチを切って
	静けさの中に、耳を澄ましたほうがいい。
	そう思って、そのときだけは、
	メールを書くのをやめた。
	そうして、私は、じっと自分の心の音を聞いた。
	あのとき、静けさの中に、
	自分を解き放ってよかったと想う。
 
	なぜか饒舌になるとき、
	そこに、どんな心理が働いているのだろうか?
 
	静けさの中、自分が聞くべき音は、何だろうか?
 
	(山田ズーニー『おとなの小論文教室。』2005-07-06-WED
	 Lesson255 なぜか饒舌になるとき より)
 
人になにかを言われたくないとき。
なにかに腹を立てておさまわらないとき。
饒舌になるときがある。
 
その饒舌は、攻撃への防御だといえるのかもしれない。
 
人のことももうそれ以上ききたくないし、
なにより、自分の声もききたくない。
 
自分の内なる声をきかないでもすむ最前の方法は、
自分で「雑音」を発すること。
外に向かって饒舌になることである。
その饒舌には、怒りの表現も含まれる。
 
じっとしていられない。
言い訳しないといけない。
腹の虫が治まらない。
 
考えるということもそうだ。
考えることができないとき、
人は外に向かって行動にでやすくなる。
動いていれば紛れるからだ。
実践という名の饒舌もそうだ。
本来の実践は実践と名づける必要はもはやないのだから。
 
・・・という、こうして書いていることも、また
なんらかの饒舌なのだろう。
そのときの基準は、
自分の内なる湖が鏡のようになっているかどうかだ。
 
「こんな顔かい」と自分で自分を振り返って
自分で自分の顔を見たくないとき、見せられたくないとき、
人はその湖面を雑音で乱そうとするのだから。
 


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