これは、「雑音」だな。 ひとことで言えば、私は、記事の内容に関して、 無意識の部分で、なにか、うしろめたかった。 まったく人を攻撃するような内容ではなかったのに、 無意識の部分の何かが、 攻撃を受けたような感じがしていた。 口を閉じて、静けさに耳を澄ますことで、 それが、自分の身に、ひたひたと迫ってくる。 その音から逃れようとして、 私は、自ら「雑音」を立てていたのだ。 沈黙への抗い。 黙すれば、聞かねばならぬ音がある、 気づいてしまうことがある。 それに抗い、紛らす、自分がいた。 こういうときは、苦痛だけど、 いったん、発言スイッチを切って 静けさの中に、耳を澄ましたほうがいい。 そう思って、そのときだけは、 メールを書くのをやめた。 そうして、私は、じっと自分の心の音を聞いた。 あのとき、静けさの中に、 自分を解き放ってよかったと想う。 なぜか饒舌になるとき、 そこに、どんな心理が働いているのだろうか? 静けさの中、自分が聞くべき音は、何だろうか? (山田ズーニー『おとなの小論文教室。』2005-07-06-WED Lesson255 なぜか饒舌になるとき より) 人になにかを言われたくないとき。 なにかに腹を立てておさまわらないとき。 饒舌になるときがある。 その饒舌は、攻撃への防御だといえるのかもしれない。 人のことももうそれ以上ききたくないし、 なにより、自分の声もききたくない。 自分の内なる声をきかないでもすむ最前の方法は、 自分で「雑音」を発すること。 外に向かって饒舌になることである。 その饒舌には、怒りの表現も含まれる。 じっとしていられない。 言い訳しないといけない。 腹の虫が治まらない。 考えるということもそうだ。 考えることができないとき、 人は外に向かって行動にでやすくなる。 動いていれば紛れるからだ。 実践という名の饒舌もそうだ。 本来の実践は実践と名づける必要はもはやないのだから。 ・・・という、こうして書いていることも、また なんらかの饒舌なのだろう。 そのときの基準は、 自分の内なる湖が鏡のようになっているかどうかだ。 「こんな顔かい」と自分で自分を振り返って 自分で自分の顔を見たくないとき、見せられたくないとき、 人はその湖面を雑音で乱そうとするのだから。 |
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