風のトポスノート560

 

思想を血肉化できずスタイルにしてしまうこと


2005.7.6

 

	 ブルームが言いたいことは、こうである。
	 ドイツ思想は20世紀ドイツにおいては、結局、ヒトラーのナチズムの中に
	改竄されていった。アメリカ人はそのように理解した。なぜなら、大量のユダ
	ヤ人がアメリカに脱出してきたからだ。
	 そこで主たるアメリカの知は、ナチス以後のドイツ思想から"思想"を除去し
	て、そのかわりにナチス以前のドイツ人、とりわけニーチェが見抜いた「神に
	代わるもの」と、フロイトが見抜いた「理に代わるもの」とを評価するように
	なった。それを大学で教えてきた。ところが学生たちは、それを"思 想"として、
	ではなく、アメリカ流に"スタイル"にすることを選んだのではないか――。
	 ぼくなりに強調して集約してみると、こういう解釈なのだ。そうだとすれば、
	ここには、二つのことがおこっていることになる。アメリカはドイツ思想をま
	ともに血肉化しなかったということ(あるいは、できなかったということ)、
	また、アメリカはそれ以来、どんなことをも"スタイル"にするようになったと
	いうこと、この二つだ。
	(・・・)
	 残念ながらというか、案の定というか、日本もまたいまや「ライフスタイル
	絶賛」に突入している。ようするに個々人のちょっと目立ったライフスタイル
	に、マスメディアもケータイ文化もリトルマガジンも屈服することをはっきり
	選び始めたのだ。浮きうきと――。「個人主義」「アイデンティティ」「自分
	さがし」を筆頭に、「私の城」「こだわり」「おたく」「オレ流」「自分らし
	さ」「マイブーム」なんてところが光を浴びて跋扈した。これらは、アメリカ
	ですらすでに"ミーイズム"として批判を浴びせられたものであるのだが、日本
	ではまだまだ新鮮なままなのである。
	 ところが日本では、これを大学問題としては受け止めてはいない。教育一般
	の改良が語られているにすぎず、「ドイツ・コネクション」にあたる「何か」
	があると分析した者もまだいない。20年遅れのアメリカが大手を振っている
	ばかりなのである。
	(松岡正剛の千夜千冊【1047】2005年7月5日 より
	 アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』1988 みすず書房)
 
「アメリカはすでに死んでいる」のかもしれない。
少なくとも、思想が血肉化できないがゆえのスタイル化はすでに死骸の様相を 
呈している。
しかし人は多く死んだもののほうを好むものだ。
動かないからわかりやすい、ということだろうか。
 
図式化のもっている陥穽もそこにある。
考えるということがわらないのも、
それを死骸化したものならわかったような気がするが、
その考えるというプロセスそのものに混乱してしまうということなのだろう。
 
なにかを輸入して模倣するという
日本でよくみられる風景も
そのアメリカンなスタイル化と合わさって
ますます死骸の様相を呈している。
 
そのひとつの在り方が、
道具に使われるということにみらえる。
道具に使われているにすぎないことを
個性だとかいうことで勝手に受け取ったりもする。
ブランド志向もそうだし、みんながケイタイを肌身離さず持っているのもそう。
形を模倣することを良しとすることからくる悪癖である。
 
型の習得とその悪癖とはもちろんある意味逆である。
本来の型の習得は、生きたプロセスを身につけることだが、
その悪癖は、すでに死んでいるものに執着することなのだから。
ヴァーチャルなキャラに執着するのもまた同様のことだろう。
 
そうした在り方からみれば、思想の血肉化は
生々しくてうざったいと見えるのかもしれない。
ファーストフードの化学調味料の味に慣れて
生きた味の力を遠ざけてしまうようなものである。
教育がそれに輪をかける。
価値基準の死骸化、といえるだろうか。
「個性を大切に」ということそのものが
ほとんどゾンビのように教育を覆いつつあるのかもしれない。
 


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