風のトポスノート558

 

書くことへの視点


2005.7.4.

 

	質問:
	「文章を書くことって
	 あんまりはやくはじめないほうがいい」
	という考えについて、きかせていただけますか?
 
	それはなぜかというと、
	文章にはやっぱり規範が多すぎて、
	すごくワクや形にとらわれがちなんですね。
	(・・・)
	小島信夫さんが、わりとよく
	「文句のつけようがないんだけど、
	 おもしろさはひとつもない」
	というんだけど、
	若くて書ける人の文章は
	そういう場合が多いです。
	特にここがだめだというところは
	一か所もないんだけど、
	おもしろいところも一か所もない……。
 
	(ほぼ日での連載「保坂和志さんの経験論」2005.6.30.より)
 
文章がおもしろいかおもしろくないか、
という視点からすると、
どんなに巧みに書けていたとしても、
パターン化した記号操作の巧みな文章は
意味内容さえ「ワクや形にとらわれ」ていて、
たしかにおもしろいとはいえないだろう。
 
文章は音楽のようなもので、
どんなにうまく演奏されたものをきいても
おもしろくない演奏はまったくおもしろくない。
 
書かれたものも
演奏されたものも
うまいに越したことはないのだけれど、
そのうまさには必然性が必要だ。
だから内容のないうまさは、むしろ嫌悪感を伴う。
 
技術、技巧は、
それを使う人によって
生かされもし、また殺されもする。
 
むずかしいところである。
 
ちょうど、保坂和志 『小説の自由』(新潮社)
という「小説論」がでているが、
そのなかにこうある。
「私にとって小説とは『読む』もの
『書く』ものであると同時に
『考える』ものだ」
 
これはある種の極論でもあるけれど、
そういう視点を忘れて垂れ流すように書かれた小説は
内容なく演奏されてしまう演奏のようになってしまうのだろう。
 
とはいえ、ぼくにはいまだに「文章を書く」ということが苦手で、
書こうとするたびごとに、そのあまりの表現のまずさとパターン化に、
ほとほと嫌気がさしてしまうことばかりである。
書くことをはやくはじめる、どころか、
いまだにはじまってしないようなもの。
 
できれば、そのうちに、
自分なりの生きたことばで
なにか表現できればと願っているのだけれど、
なんだかため息ばかりで、
こうして書いていても、
その言葉を片端から消してしまいたい気分になる。
技巧はまず望めないだろうから、
せめていつか、おもしろい表現ができるようになれば。
 


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