風のトポスノート557

 

「器官なき身体」と高次の身体など


2005.6.9

 

	 それにしても、「身体感情」といえるような身体の知覚を超え、さらに
	身体器官の局部性や、機能の部分性や、形態の可視性を超えて「器官のな
	い身体」として生きられるような生の様態は、たしかに実在してきたのだ。
	アントナン・アルトーの「器官なき身体」の体験を、一つの壮大な生の哲
	学にまで拡張したことは、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』
	の忘れがたい試みのひとつである。
	・・・
	 「器官のない身体」が、形態発生における生命をモデルとする、疑似科
	学的なイメージにすぎないという見方もありうる。しかしアントナン・ア
	ルトーが「器官なき身体」の思想を他の作品にもまして凝縮的に表現した
	『神の裁きと決別するため』で、体外受精と戦争のテクノロジーを弾劾し
	ながら、身体について語りはじめるとき、それを疑似科学的であり、非科
	学的にすぎないといってすますことはできない。・・・
	 「器官なき身体」のような体感や<幻想>は、いまでは統合失調症とい
	う名称に変わりつつある分裂症の過程にあっては、決して珍しくない症例
	であるといわれている。私にはもう頭も、胃も、肺も、肛門もない……こ
	の「恐ろしい旅」、「耐えがたい強度」に多くの病者は、うちまかされて
	しまう。しかし「失調」といわれ「分裂」と呼ばれてきたそのような過程
	に、いったいどんな葛藤や抵抗が含まれていたのかを見るという課題があ
	る。それは生物学の問題ではないが、決して精神医学が正面から問題にし
	てきたことでもない。おそらく「器官なき身体」は、どの学にも属さない
	思考だけが、正確にとりだしうるような問題にかかわっているのだ。誰か
	がこれを叫び、誰かがまたこれを正確に問いとして、概念として抽出しな
	ければならなかった。
	(宇野邦一『<単なる生>の哲学/生の思想のゆくえ』
	 平凡社/2005.1.発行 P142-146)
 
現代の病とは、逆説的にいえば「器官なき身体」というような概念が
こうして問われなければならないということでもあるのだろう。
悲しいことに、この「器官なき身体」ということさえも
「疑似科学的であり、非科学的にすぎない」とされてしまう。
そうでないとしても少なくとも「科学では説明できない」という
常套句で片づけられてしまうのである。
 
シュタイナーの精神科学の基本的タームでもある、
肉体、エーテル体、アストラル体といったものも同様であり、
通常の科学の枠組みでは、人間における「肉体」ということさえも必要ない。
なぜならばすべては「肉体」以外の何者でもないとされるからなのだ。
それ以外のものがあるとしても、それは「科学では説明できない」わけである。
 
少し考えてみるだけで、「科学では説明できない」ものは山ほどある。
というよりも、「科学で説明できる」(と思っている)ことのほうがわずかなのだ。
だからといって、科学なんてばかばかしいということではもちろんない。
重要なのは、シュタイナーのいうように、諸々の科学領域を精神科学的に拡張 
することなのだ。
でなければ、すぐに「信仰」や「神秘主義」、そうでない場合でも
かなり安易なニューエイジ的なムード派などが幅をきかせてしまうようになる。
 
「器官なき身体」に戻ろう。
「身体」を理解するということは、
「肉体」を理解することでもDNAを解明することでもない。
それが前提となる。
「身体」は「カラダ(空だ)」という器でもあり、
しかもそれぞれの「器官」はそれだけで独立しているのでもない。
また「器官」というとき物質的なパーツであるということもできない。
それは言葉をかえていえば「働き」のための「場所」ということができるだろう。
その「場所」において、物質的なレベル、エーテル的なレベル、アストラル的 
なレベル、
そして自我に関わるレベル等のさまざまが働いているというふうにとらえないで、
物質的な器官のみのメカニズムだけをとらえようとすることでは
理解できることは限られてくる。
限られてくるだけではなく、そのメカニズムに否応なく還元してしまうことで、
強引なまでの説明が与えられてしまうことになる。
 
ちょっと強引な比喩の話をしよう。
「お金」を理解するときに、その物質的な側面だけを問題にするとする。
もちろん「お金」は、昨今、電子マネーということがでてきていることでもわ 
かるように、
そこには「器官なき身体」ならぬ、「物資性なき働き」があるといえる。
早い話、関係性のルールそのものがマネーであるわけだから、
マネーを問題にするということは、マネーの働きを問題にするということであって、
「このお金は汚れているからキレイにしよう」という物質的な問題ではないし、
物質的に同じものをつくるということは「偽造」になってしまう。
 
ここで問題になるのは、マネーの関係性において、
たとえばマネーがマネーを生じさせるというような魔術的な働きだといえる。
マネーはそれそのものの関係性を働きのなかに置くことで、
減ったり増えたりするということである。
考えてみれば、とても不思議なことであり、かつまた当たり前にも思えることである。
しかしそこで重要なのは、結局のところ、マネーのもとになっている「関係 
性」であって、
そのレベルを問題にしないかぎりマネー問題を解決することはできない。
このこともいうまでもないほど、ばかばかしいまでに当たり前のことである。
 
おそらく、そこで、シュタイナーは「経済における友愛」をいうのは、
(平等ということでも、自由ということでもなく、「友愛」)
法律のような権利の問題でもなく、精神のような高次の要請というか原理でもなく、
まさに血液を循環させて、平等と自由をサポートする働きをそこにみるからな 
のだろう。
そのとき、その「関係性」としてのマネーが友愛的でないときに、
その「働き」は「愛」とは反対のものを招いてしまうことになる。
 
老子ではないが、「愛」というのが出てくるときには
常に「愛と反対のもの」がでてくるのは避けられない。
愛と愛と反対のものは、セットになっているのだ。
そこでおそらくその「反対の一致」こそがひとつのヴィジョンとなるのかもしれない。
 
キリストがアーリマンの誘惑に対して
「人はパンのみにて生くるにあらず」と喝破しながらも、
人がパンで生きているということがキリストにとって理解不足だったように、
「人はマネーのみにて生くるにあらず」ということによっては
結局のところ人は「マネー」がなくては生きていけないという現実を理解はできない。
「マネーを奪われたら、別のマネーを与えよ!」ということも成立しない。
では、どうすればいいのか。
 
ある意味で、「友愛」が、「反対の一致」に裏づけられた「友愛」が
ひょっとして「マネーの反対のもの」として出てくるのだという考え方もできる。
「経済における友愛」というのをそういうふうにとらえてみるのも面白い。
さらに、ひょとしたら法と平等というのも反対のものであり、
精神と自由というのも反対のものかもしれない。
・・・というのはちょっとしたこじつけまたは錯誤かもしれないが、
ちょっと面白い視点かもしれないとも思う。
 
ともあれ、少なくとも出発点は、「器官なき身体」のように、
部分のメカニズムだけから発想するのではなく、
高次の働きをも含めた「社会有機体」をとらえようとすることなのだろう。
「社会有機体」をひとつの大きな「器官なき身体」であるとする。
個々の部分は決して切り離されることはできないということ。
しかもそれは目に見えないさまざまな働きのネットワークでできている。
 
そしてそこにおいて、問わなければならないことは山ほどある。
問題は、問うための出発点に立っていないということにあるように思えてならない。
 


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