風のトポスノート556

 

「もの」と「こと」


2005.6.1.

 

	江藤 「物」というのは、「事」とともに非常に基本的な日本語ではある
	のですが、「物」と「事」が、一体どこで繋がっていて、どう離れている
	のかを考えてみると、古語辞典などを見てもはっきり分からない。「もの」
	というのは、車谷さんが「物の怪」「物狂い」「物心がつく」などといわ
	れたように、輪郭のはっきりしない、正体のさだかでないものをいうらし
	いですね。
	車谷 ええ。実体がつかめない。
	江藤 フワフワァーと何かがあるのは確かなのだけれど、しかしそれはた
	だの気分かというと、そうではない。まさに「もの」なのであって、実体
	ではないかもしれないけれど、なにがしかの実体を含む、輪郭のはっきり
	しない、ある広がりでもあり、それが自分のなかに入ってきたときのやる
	せなさでもある。要するに、限定しにくい。輪郭を恒に曖昧にするものだ
	と思うんです。
	車谷 まさしくそうですね。
	江藤 それに対して「事」というのは同時に「言」でもあるわけです。
	『万葉集』の用字法を見ても、「事」と「言」は、言葉の意味でも事柄の
	意味でも用いられている。「事」は「言」と同意義になるわけで、当然、
	輪郭ははっきりするんですが、「もの」は輪郭がはっきりしないからこそ、
	逆に文学的であり得るんでしょうね。
	(江藤淳+車谷長吉「私小説に骨を埋める」より
	 車谷長吉『反時代的毒虫』平凡社新書244/2004.10.8.発行 所収)
 
「もの」は「物質」の「もの」だから
唯物論的にいえばはっきりしているはずかとおもいきや、
「もの」は「物の怪」のような、よくわからないものなのである。
実際のところ、物質というのもその正体というのはよくわからない。
 
正体がわからないものを手なずけて使役しようとするものだから、
現代の人間は、逆に「もの」に使われるようになってしまっているのかもしれない。
その「もの」の主とは、ある意味でアーリマンなのだ。
だから、そのアーリマンにとりつかれてしまうと、「物狂い」になってしまう。
 
しかし、その「もの」という外界とある程度ちゃんとつきあえないと
「物心つく」ことさえできないわけで、むずかしいところである。
 
「こと」はまさに「事」であり「言」であり、
日本ではそれは「言霊」となって働くという発想がある。
これは得体の知れない「もの」ではなく、
ある種の魔術のように人にしっかりと影響を与えるものなのだ。
「そんな<こと>はできない!」と叫んでも
その魔術は人を強いることが往々にしてある。
「事実」という「実の事」をつきつけられて逃げられなくなるように。
そして人は「おまえは○○○である」という言葉にとらわれて
自分をその檻に閉じこめて生きてしまうことにもなりかねない。
 
そういう意味では、その「もの」と「こと」がドッキングした
「事物」または「物事」というのは、
人を見えないところと見えるところで規定してしまうものなのかもしれない。
 
そのように「もの」と「こと」は、謎に満ちているが、
謎でありながら私たちからつかず離れず存在する不思議だといえる。
 


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