風のトポスノート555

 

「ぼくは、意味がきらいです」から


2005.5.22.

 

	タモリ ぼくが音楽を好きだというのは、
	意味がないから好きなんですね。
	糸井 意味がきらいだと(笑)。
	タモリ うん、意味の世界はきらいなんです。
	糸井 だけど、意味がきらいだっていうのは、
	意味の世界の向こう側にしかないから。
	つまりそれは、あとで発生することですよね?
	タモリ そうですね。
	山下 きっとタモリさんは、早い段階から、
	意味の世界を知りつくしたんですね。
	タモリ 知りつくしてはいないんですけどイヤです。
	いまだにそうです。イヤなんです、意味が。
	小学校の3年生ぐらいのころのことを、
	いまでも思い出すんだけど、
	教室で誰かの書いた文章を読んでいて、
	先生が
	「さて、この作者は
	 何を言いたかったんでしょうか?」
	と聞いたんです。
	え? 言いたいことは
	すべてここに書いてあるじゃない……
	そういう質問は、
	今でも、不思議に思うんです。
	我々の世代が、
	なんか言わなきゃいけないと
	感じているのは、
	教育からもきているのかもしれない。
	作者は、別にそれほど言いたいとは
	思っていないかもしれないし。
	たとえば、ただ、
	おもしろいものを書きたいだけで。
 
	ほぼ日「はじめてのJAZZ」第25回「ぼくは、意味がきらいです。」
	http://www.1101.com/jazz/index.html
 
「意味がきらい」というのはよくわかる。
しかも「作者の言いたかったことは?」という質問への疑義も。
それはすべての前提としておいたほうがいい。
世の中には、「意味」と「意図」を
教えたがる気持ち悪さが充ちているから。
世の多くの道徳しかり。
 
おそらくタモリは知っているのだろう。
タモリそのものの存在と行動、発言も
片端から「意味化」されてしまうことを。
そしてその「意味化」の作業は、
世の多くの道徳的な許容範囲のなかに
きちんと収められてしまいがちであることも。
 
ローマの哲人にして皇帝であるマルクス・アウレリウスは言った。
「心の底まで<皇帝>になってしまい、
その色に染まりきることのないよう心せよ」
 
ちょっと大げさな例ではあるが、
「皇帝」のところに、今の自分のペルソナを入れてみるといい。
それ以前に、多くの人は、自分をペルソナだとさえ思っていない。
そして、きわめて「意味」深く世を生きている。
別のマルクスは、「宗教はアヘンである」といったが、
「意味はアヘン」なのだともいえるところがある。
 
しかし、ただ「ぼくは、意味がきらいです」という戦略は、
「アンチ」「賛成の反対」という
別の「意味」の網に絡め取られてしまうことにもなる。
そこが、タモリがむしろ道徳化して見えてしまう部分なのだろう。
タモリという「意味」はすでにかなり消化されている。
自分でもそれに気づきながらその「外」が見えないということなのかもしれない。
 
しかし、それでも、世の中は、
あまりになにかを「意味」に染めたがる人に充ちている。
その息苦しさは、それを感じたことのある人にとっては
きわめて切実なものなのだ。
 
しかし、毒杯を飲んだソクラテスがすごいのは、
死刑宣告をした「意味」に対して「アンチ」で答えなかったことなのかもしれない。
「ぼくは、その<意味>を吟味してみたい」と対話をくりかえした。
そしてその<意味>をその<意味>を使っている本人のところから疑わせた。
たしかに自分で自分の根拠にしている<意味>を根こぎにされていけば
その「世間」の不満は高まるばかりだろう。
そして「毒杯」を飲ませることになった。
ソクラテスは「アンチ」で逃走することもできたようだが、そうはしなかった。
別に、市民道徳とやらに従ったわけではないだろう。
それであれば、ソクラテスの魅力は色あせてしまう。
「意に介さなかった」というのがいい。
 


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