時間はないわけじゃないのだけれど、 「時間つぶし」をする時間が、ないということなのかな。 (「ほぼ日刊イトイ新聞」今日のダーリン 2005.5.18.より) 時間つぶしというのは、暇つぶしということでもあるから、 そのときの時間というのは「暇」のことなのだろう。 暇には、豊かな暇と貧しい暇があって、 時間というのは、意識のことでもあるから、 その意識にも豊かな意識と貧しい意識があるのだろう。 時間つぶしをする時間がない、というのは、 プラスでみると、つぶさなくても豊かな意識があるというところでもあり、 またマイナスでみると、豊かにひろがっている意識がないということにもなる。 忙しいという文字は、心を亡くすと書くとはよくいわれるが、 心を亡くすというのは、貧しい意識のことだといってもよい。 だからそのときの時間はエンデの『モモ』で 危機感をもって描かれているような意識のこと。 モモが「聞く」ときに流れている時間は とても豊かな「時間つぶし」の時間。 でも、じっとしていられないから つまり、自分の時間=意識をもてあましてしまってひとりでいられず 常に外に向かってしまう「時間つぶし」の時間はとても貧しい。 ひとりでいることというのも、豊かな「時間つぶし」にかかわる。 ふたりでいるときにも豊かにひとりでいられること。 ひとりでいるというのは、もちろん物理的なそれではない。 自由でいるということの別名でもある。 そのときの時間はふたりあわせた時間よりも たぶんずっと豊かでいられる広がりになる。 それぞれがふたりぶん以上の時間のなかで しっかりと耳をすませることができる。 |
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