風のトポスノート554

 

「時間つぶし」をする時間


2005.5.19.

 

	時間はないわけじゃないのだけれど、
	「時間つぶし」をする時間が、ないということなのかな。
	(「ほぼ日刊イトイ新聞」今日のダーリン 2005.5.18.より)
 
時間つぶしというのは、暇つぶしということでもあるから、
そのときの時間というのは「暇」のことなのだろう。
 
暇には、豊かな暇と貧しい暇があって、
時間というのは、意識のことでもあるから、
その意識にも豊かな意識と貧しい意識があるのだろう。
 
時間つぶしをする時間がない、というのは、
プラスでみると、つぶさなくても豊かな意識があるというところでもあり、
またマイナスでみると、豊かにひろがっている意識がないということにもなる。
 
忙しいという文字は、心を亡くすと書くとはよくいわれるが、
心を亡くすというのは、貧しい意識のことだといってもよい。
だからそのときの時間はエンデの『モモ』で
危機感をもって描かれているような意識のこと。
 
モモが「聞く」ときに流れている時間は
とても豊かな「時間つぶし」の時間。
 
でも、じっとしていられないから
つまり、自分の時間=意識をもてあましてしまってひとりでいられず
常に外に向かってしまう「時間つぶし」の時間はとても貧しい。
 
ひとりでいることというのも、豊かな「時間つぶし」にかかわる。
ふたりでいるときにも豊かにひとりでいられること。
ひとりでいるというのは、もちろん物理的なそれではない。
自由でいるということの別名でもある。
そのときの時間はふたりあわせた時間よりも
たぶんずっと豊かでいられる広がりになる。
それぞれがふたりぶん以上の時間のなかで
しっかりと耳をすませることができる。
 


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