風のトポスノート553

 

高次の論理学


2005.5.15.

 

	 昼と夜。苦と楽。真と偽。美と醜。死と生などなど。ぼくたちはふつう、
	対立する二つの項が、いかにもはっきりと区別された、まったく別々の実体
	や出来事であるかのように思いこんでいる。
	 ほんとうにそうだろうか?
	(・・・)
	  生きるのも死ぬのも、目覚めも眠りも、若きも老いも……同じひとつの
	  こと。なぜなら、このものが転じてかのものとなり、逆にかのものが転
	  じてこのものになるからである(断片88)
	 そう、ヘラクレイトスもいうとおりだ。
	(・・・)
	 そんな矛盾や逆接性をつねに包容しつづけようとする弁証法。それが否定
	弁証法である。
	 それはとうぜん、同一性(内)にありながらもつねに非同一性(外)を意
	識し、非同一性を開き、非同一性にむかいあう思考様式。あるいは、「概念
	なきものを概念で開きながら、しかしなお概念なきものを概念と等値してし
	まわないこと」(ND.21)。同一性(言語)と非同一性(外・非言語)とに
	引き裂かれた分裂構造(矛盾・逆接)を、いわばみずからの思考圏としつづ
	けることである。
	(・・・)
	 だからさらに、こういってもいいだろう。パラドックス論法。それは非知
	で非同一な無限や永遠や絶対性…が、有限・時間的・相対的なモノ(コトバ)
	の位相に接触し、一瞬フッと顔をだす様式だと。つまりこういうことである。
	 有限で時間的で相対的な次元に生きるモノやコトバの側(同一性)からは、
	永遠なるものの位相へゆくことはできない。しかし、無限・永遠・絶対性の
	ほうは、しばし自己を否定しながら、有限で時空的なモノやコトバの世界へ
	侵入する。その特異な現出の形式が、パラドックスという思考(言述)形式
	にほかならぬわけだ。
	(古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』
	 ちくま学芸文庫 2005.4.10.発行/P97-109)
 
古東哲明の『現代思想としてのギリシア哲学』は刺激的な哲学書である。
ギリシア哲学がまさにきわめて先鋭的な「現代思想」として現れてくる。
 
その第二章は「逆接の宇宙ーーヘラクレイトス」。
その章の最初(扉)には、ノヴァーリスの次の言葉が引かれている。
 
	矛盾律を否定することこそ、より高次の論理学の最高の課題であろう。
 
論理学は同一性に基づいている。
従ってそこには矛盾律が存在する。
そしてその同一性の「外」は見えない。
まさに「無」であり「空」となってしまう。
 
仏教が一切は空である、とし、
中論のように否定そのものを論理化しようとしたのは、
まさに「有限で時間的で相対的な次元」ではない
その「外」の「永遠なるものの位相」を論理化しようとした試みであろう。
それは生即死というように、
「即」ということで、内と外がつながってしまう。
パラドックスが同居してしまう。
メビウスの環のように。
 
実際、数学においても、虚数が必然的に登場する。
おそらくその虚数というのは、
その「外」を取り込むためのものだったのだろう。
実際、二乗して−1になるような数は
同一性の次元においてはイメージしがたいものである。
しかし数学の世界において、その虚数がなければ立ちゆかないように、
この、今私たちのいる世界が成立していているということは、
その虚数にあたるものが必要であるとはいえないだろうか。
 
ノヴァーリスのいう「より高次の論理学」としてのパラドックス論法。
そのひとつがアドルノの否定の弁証法でもある。
 
ある意味で、ホメオパシーの原理というのもそれにつらなる。
それは同一性の原理では説明できない。
同種でありながら逆に働いてしまう論理がそこにはある。
面白いことに通常の医療の原理をallopathy逆症療法といい、
通常の医学ではその原理が認められにくいhomeopathyが
同種療法であるというのは、ちょっとしたパラドックスなのかもしれない。
 
そのホメオパシーを説明可能なのは、
シュタイナーの人智学だけかもしれないというのは、
その神秘学がまさに「より高次の論理学」だからなのだろう。
 
その論理では、死と生のパラドックスはすでにパラドックスではない。
仏教でいう「即」というような表現を使う必要もなくなるのである。
通常の科学の拡大するという意味もそこにある。
決して同一性のなかにはおさまるはずもない世界を
同一性にしがみつくことで矛盾を抱え込んでいる科学を拡大する。
 
しかし、それがなかなか受け入れられにくいのも事実だろう。
その領域には、たとえば宗教のみが取り込んでいたパラドックスも
やすやすと取り込むことができるわけなのだから。
 
非理性という方便を使うことでしか成立しなかった宗教の
「鰯の頭も信心から」というような宗教心はそこでは不要になる。
とはいえ、人の心は、そういう信心こそを必要とするところがあり、
それが世界を今のようにかぎりなく闘争的なまでに無常にしているのだが…。
 


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