一冊の書物から音楽が聞こえてくるなどということは、めったにない。まだ しも音楽家ならリルケやヘルダーリンの行間や、あるいは李白や寂室元光の漢 詩から音楽を聞くかもしれないが、少なくともぼくにはそういう芸当は不可能 だ。 ところが、この『音、沈黙と測りあえるほどに』はそういう稀な一 冊だった。 それも現代音楽家の文章である。武満徹の音楽はレコード以外にもすでに『ノ ーヴェンバー・ステップス』を東京文化会館で聞いていたが、その武満さんが こういう音が聴こえる文章を書くとは予想もしていなかった。とくに「吃音宣 言」には胸が熱くなった。 なぜこの一冊に音が鳴っているかということは、うまく説明できるような答 えがない。けれどもひとつだけ言えそうなことがある。それは武満徹自身が音 を作ろうとしているのではなく、つねに何かを聴こうとして耳を澄ましている 人だということである。 それで思うのは、この人はきっと「耳の言葉」で書いているのだろうという ことだ。いま手元にないので正確ではないのだが、亡くなる数年前に「私たち の耳は聞こえているか」といったエッセイを書いていた。ジョセフ・コーネル とエミリー・ディッキンソンにふれた文章で、テレビやラジオやウォークマン をつけっぱなしの日本人がこのままでは耳を使わなくなくなるのではないかと いうような危惧をもらしていた。 きっと、この人は「耳の言葉」で文章が書ける人なのである。ついでにいえ ば武満音楽は、おそらく「耳の文字」でスコアリングされてきたのであろう。 (松岡正剛の千夜千冊/第千三十三夜【1033】2005年5月9 武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971 新潮社 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1033.html) 武満徹の音楽も言葉が特別なのは、 すくなくともぼくにとってそうなのは、 ここに述べられているように、 「音を作ろうとしているのではなく、 つねに何かを聴こうとして耳を澄ましている」からなのだろう。 ぼくの理想も、たとえばこうしてなにか書き連ねているときにも、 文章を書こうとしているのではなく、 「つねに何かを聴こうとして耳を澄ましている」ことで それがたまたま言葉になるということである。 もちろんそんなにうまくいくわけもなく、 こうして、いつものように惨憺たる言葉の屑になってしまうのだが、 それでも少なくとも「文章を書こう」というのだけはあまりない。 だから必要に迫られて書かざるをえない場合以外は、 こういうときでも「文章を書こう」とは思っていない。 だから、書きたい書きたいという人の文章を目に、耳にすると、 多くの場合、この人は耳を澄ましてないのかもしれないなと思ってしまう。 だから、ぼくの(あくまでも趣味としてだけれど) 音楽を聴くときにも、その基準は、 耳を澄ましている感じがあるかどうかになる。 もちろん、「俺の話をきけ〜」と歌われる タイガー&ドラゴンの主題歌のようになると その逆説的なパロディを楽しむことはできるし、 「ほぼ日」で連載されているジャズについての 山下洋輔&タモリの話で、ジャズというのも 「ちょっときいてくれ」というもので それを「きいてあげる」ことで成立するというあたりも、 その「耳を澄ます」ことの逆説としてのジャズを楽しむこともできる。 しかし、ぼく個人としては、 あらためて思ったのだけれど、 「俺の話をきけ〜」というのはあまりないな、と思う。 たぶんこうしたネットとかなかったとしたら、まず何も書かなかったろうし。 書きたいとも思わなかったろうし、現にいまもとくに書きたいとかは思わない。 先ほど、千夜千冊で武満徹がでてきていたので、ただうれしくなっただけのこと。 ただそれだけの。 さあ、今日は武満徹の音楽をききながら眠ってしまおう。 何にしようか。 そうだ、I Hear The Water Dreaming.にしよう。 水の眠りのなかにとけ込んで夢見て・・・。 |
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