風のトポスノート549

 

欠けた音と内面の耳


2005.5.9.

 

	 チェンバロやリュートを聴いていると、ときどき不思議なおもいに なることがある。あ
	れはBSの音楽番組を見ていたときだった。演奏と楽譜が同時に画面 に出るようになって
	いた。最初のうちはぼうっと見ていたのだが、ふと楽譜を追いながら 音を聴いていた。そ
	れで気がついたのだが、音の入りはよくつかめるのに、その先の伸び がない。楽譜を見る
	と長く延びた音符になっている。チェンバロやリュートはそれを楽器 として可能にしない
	のだ。
	 それで目をつぶって聴くと、チェンバロとリュートが交ざっていた その曲はつねに全体
	としての流れに伸びを含んでいた。なぜこんなふうに聴こえるのかと 思っているうちに、
	これは「内面の耳」が含みを聴いているのだと合点した。一つのチェ ンバロの音と次の音
	の入りまでの合い間に、「内面の耳」が浮きみをつくっていたのだっ た。楽譜とチェンバ
	ロはむろん対応はしているのだが、厳密な対応ではなく。その欠損を 耳のほうが補ってい
	たのである。
	 このことから、いくつかのことを思い出した。ひとつは、バッハの 『フーガの技法』を
	オルガンで聴くのとチェンバロで聴くのでは何か大きなものが異なっ ていたことだ。たし
	かにオルガンは技法的にも十分に音の保持を響かせることができるの であるけれど、その
	ぶんチェンバロでバッハを聴いたときよりもこちらの含みが減ってい る。ずいぶん不思議
	なことだと思った。
	 もうひとつは、こんな問題が関係があるかどうかはわからないのだ が、古代、ヘブライ
	語やギリシア語は文字のスペルですべてを発音させようとはしていず に、適当にアタマの
	中で「欠けた音」を補っていたということだ。この「欠けた音」と は、同時に「見えない
	文字」であり、も「響き聴こえる意味」であった。
	 そんなことを考えているうちに、近代音楽というものが楽譜とぴっ たりあった演奏をす
	るようになったのは何かのまちがいではないかと思うようになったのである。
	(松岡正剛の千夜千冊/第千三十二夜【1032】2005年5月6日
	 ニコラウス・アーノンクール『古楽とは何か』
	 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1032.html)
 
私たちは何を聴いているのか、である。
実際に出ている音だけを聴いているのではなく、
そこに響いていない音をも聴いている。
 
演奏というのは、おそらく
その響いていない音も含めての演奏だといえるように思える。
その響いていないものを言語化するのはむずかしいのだろうが、
たとえば、語りすぎる文章が味気ないように、
とても美しく演奏されている音楽があまりに味気なく、
どこかぎこちないけれどとても響いてくる演奏があることを思い出せば、
物理的にはそこにない音を含めて音楽だとしたほうが豊かである。
 
それは「間」とも関係するものだろうし、
「間」だけではなく、語りすぎないことで、
「内なる耳」を協働させるということでもあるだろう。
その協働にはもちろんある範囲の約束事のようなものもあるだろうし、
そういうものにしばられないものもそこに加わってくることだろう。
 
シュタイナーはリアルな人形を与えるよりも、
木ぎれに目鼻等をつけたような人形のほうが、
子どもの想像力を刺激するということを述べている。
それは子どもだけの問題ではおそらくないだろう。
 
私たちの感覚というのは、
ある意味で、外界と協働することによって
みずからを育てているということがいえる。
だから、あまりにも事細かく教えられたものだけを受け取るようにされてしまえば、
その協働=自己教育はスポイルされてしまうことになる。
 
語り得ないものについては沈黙しなければならないところがあるのだが、
その沈黙は、深い豊かな広がりでもあるのだ。
その沈黙は、おそらく他者をもふくんだ広がりであって、
その沈黙とともにあることで
人はみずからを他者とともに育てていく可能性へ向かって
開かれてあることができるのだろう。
 


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