風のトポスノート547

 

身体のなかの力の再構成


2005.4.25.

 

 
  • 能では、身体が動くことで舞があり歩行があるのではない。身体のなかで
	確かめられた、この力の移行が描き出す輪郭が舞であり歩行である。手が
	動こうとして動き、足が歩こうとして歩くのであるならば、舞にはならな
	い。手も足も不安定な状態とのかかわりのなかで、身体の構えから生まれ
	てくる力に誘われ、力の導くところへと移行するのである。その時、身体
	と面は一体となる。
	(・・・)
	 舞台の上で、能の身体は徹底して受動の身体である。舞台の空間には、
	押しとどめる力が見えない境となっていっぱいになっている。その見えな
	いものにぶつかり押し返しているのが、能である。そうして見ると、能は
	外からの力を生きるものでもあって、その力のせめぎあう輪郭が見えてく
	ることで、能の表現が成立していることになる。
	 面をつけて舞台に立つ時の、圧倒的に受動の状態にある身体は、構えの
	うちで内側から力の束のまわりに身体の中心を組織しなおして、その受動
	態を押し返していくのである。
	 その状態のなかで、舞は力の流体となる。面をつけた受動の状態を生き
	ることで、舞はその舞台の空間全体を組織しなおしていることになる。
	(土屋恵一郎『能/現代の芸術のために』岩波現代文庫/P6-7)
 
身体とはいったい何だろう。
フィジカルな肉体だけでとらえられることが多いが、
心身を切り離さないでとらえる身体論もある。
心身を切り離さない身体論といっても、
実際のところは神秘学的な観点がなければ
そのいわんとするところはよくわかならないところがある。
 
私が右足を踏み出す。
または右手を上にあげる。
それとも目線を遠くの空に向ける。
 
そのとき、なにが動いているのだろう。
なにが最初に動き始めるのだろう。
おそらく最初に動くのは心である。
つまり、「そうしよう」と思う。
それは意識的でない場合もあるが
それもふくめて心というふうにとらえてみよう。
その心が、身体に働きかける。
とはいえ、その身体のうちでも、
物質的に動くまえにおそらくは
それに先んじて動くものがあるように思える。
それを「形成力体」ということばであらわしてみよう。
その「形成力体」がフィジカルな肉体を動かす。
 
そういう基本的なプロセスがあるとして、
では、能の身体というのはどのような身体なのだろうか。
おそらくその身体は能の舞台空間と密接に結びついている。
そして、能は、そういう空間において形成される
型のなかでこそ表現されることができ、
型によって構成された生きた空間のなかで身体が動く。
その型は、形成力体を動かすための機構であり、
その機構に沿って能の身体が動いてゆく、といえるだろうか。
 
そういう意味でいえば、物理的な身体は一度滅さなければならない。
道具となった後に蘇らなければならない。
フィジカルに見ればそこに立っているだけの状態に、
形成力体を型のなかに漲らせた力があふれている。
その力のポテンシャル空間はすでに通常の物理的空間ではない。
おそらく形成力体によって構成しなおされた時空なのである。
 
その時空故に、夢幻がそこに成立し得る。
幽玄の美がそこに異次元的に存在し得る。
そこで響く謡もそういう場でこそのものであろう。
 
そしてその時空間は、私たちがいずれ遠い遠い未来において
実現するであろう身体のひとつの型でもある。
そういう見方をしてみるのもおもしろいのではないか。
 


■「風のトポスノート501-600」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る