メビウスの輪というのは皆さんご存じの通りに、帯の真ん中を辿っていくと 表と裏とが一本の線でつながり、さらにその線に沿って縦に切っていくとさら に大きなひとつの輪になってしまう。ねじれがもう一個よけいに増えた上で。 正に迷っている人間の状態そのままという感じで、さらにその輪を二つの切ろ うとすると、今度は鎖のようにつながった二つのねじれた輪っかになってしま う。混乱の限りであり、もうどうしていいのかわからない。迷いに迷うことは このメビウスの輪を縦に切り続けようとする行為に似ているのだろ う。しかし、 では横に切ればただの帯になるだろうといわれても、しかし輪っかに興味があ る者にとっては、別に帯なんぞに用はないのである。だからーーやっぱり前提 が間違っているのだろう。ねじれた輪っかがあったとき、我々はそれを直そう とばかりしてしまって、なぜそのねじれがあるのか、ということに気が回らな いのである。あるがままになじれているだけだ、ということを認めれば何の問 題もないのに、だ。我々の悩みの大半も、実はそういうものなのかも しれない。 悩みを断ち切ろうとして、その度にもっとねじれを増やしていってしまっって いるような。その最初のねじれって奴にまで戻りたいものであるが、それがで きないからあれこれ悩んでいるわけで、まさに論理が輪を描いて、表も裏もあ りません。でもとにかく、我々は最初からなんとかどっかでねじれていて、そ れはどんなに悩まなくてもすむ悟りの境地に達しても、必ず一つは残っている ものではないか、とーーそんな風にも思うのだった。 (上遠野浩平『ロスト・メビウス』メディアワークス2005.4.25発行 /P312-313) 悩みのない世界に住みたい。 とはだれしも思うものなのだろうが、 おそらく「世界」に存在する限りにおいて、 「悩み」というのはなくなることがないだろう。 「悩み」をなくそうとすれば、 世界をなくしてしまうか、悩む主体をなくしてしまうか、 どちらかしか方法がないのではないだろうか。 おそらく世界になんの矛盾もないならば、 そして主体になんの矛盾もないならば、 世界も主体も存在することができないのではないか。 なにかが存在するということができるためには、 そこになにがしかの分裂が仮象のものとしても必要になるということ。 世界が存在し、そして「私」が存在しているということは、 それぞのものが矛盾を内包しているということである。 だから、「世界」も「私」も ある意味で、メビウスの輪が象徴しているようなものとして 存在しているということができる。 「一」でありながら差異の生じている世界のように、 メビウスの輪には表/裏の区別がない。 そういう意味でも、こうして世界に存在しているということは、 「苦」そのものであるといったお釈迦様は正しかったし、 その「苦」から解放されるためには「解脱」しなければならない、 としたのもまた正しかったのだろう。 しかしそれでなにかが解決したことにはならないような気が ぼくのような凡夫にはしてしまうのである。 そのそも「世界」を「苦」だとしてしまうと、 「世界」はずっと悲しいままではないかと思うのだ。 「世界」が悲しくならない方法はないものか。 「世界」を悲しくさせないためには、「苦」そのものの位置づけ、 「悩み」そのものの位置づけを変えなければならないのではないか。 そのことで「悩み」が「悩み」でなくなることは おそらくないのだろうけれど、 「悩み」そのものが何かの種になることもあるのかもしれないのだ。 種のないところには、芽は出ない。 茎は伸びない、葉は茂らない、花は咲かない、実はつかない。 「悩みたい」というまるで自虐的な態度は避けたいけれど、 「悩み」があってそこから生まれるもののことを考えてみるのもいい。 |
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