風のトポスノート545

 

型へ/からの展開(メモ)6
「型と欲」


2005.4.7.

 

□型と欲
 
・人は「欲」を持ち、それが四苦八苦の原因にもなっている。
 というのが仏教的な観点であるが、
 「欲」がなければ人は生きていくことができない。
 
・息をしたい、食べたい、眠りたい・・・
 そういう「欲」によって人は生かされている。
 しかしその生かされているものに人はかぎりなくとらわれていく。
 そのとらわれ、つまり「執着」からの解脱を仏教は基本姿勢としていく。
 
・むずかしいところだが、
 とらわれを去るということは、「欲」が不要だということではない。
 重要なのは、「欲」をコントロールするということである。
 しかしコントロールするといっても、
 「欲」そのものが自分であるとするならば、
 そのコントロールの主体が不在にであり、
 運転者のいない車のようになってしまう。
 
・また、いくら「欲」をコントロールし得たとしても、
 その「欲」をスタティックなカチコチのものに固めてしまったのでは、
 肝心の生命力そのものをスポイルしてしまうことにもなりかねない。
 そういう意味で、「欲」を制御するための自在な「型」を習得することが、
 生命力を単に「苦」そのものにしてしまわないために必要になるだろう。
 
・仏教では「中道」ということを「正しい道」としている。
 それは「中」なる道なのだから、
 バランスのとれたものであるはずなのだけれど、
 ともすれば、禁欲的な激しさのなかでそれが求められたりする。
 ある意味で、激しくふれた針を逆にふらすようなものなのだけれど、
 そこで失われてしまうものがあるということは認めておいたほうがいいかも しれない。
 
・中道、正しい道を歩むためには、「型」が必要になる。
 その「型」には、苦行でも快楽でもないあり方や
 ものごとを認識する際の総合的・統合的な見方などがある。
 それらのあり方を学ぶということが、仏教における最大のテーマかもしれない。
 
・しかし、シュタイナーもいうように、
 仏陀は愛を説いたが、キリスト・イエスは愛を生きた。
 (ここでいう仏陀の愛は、渇愛の意味ではないのはもちろんであるが、
 遺された経によれば、仏陀はともすれば現象的な愛の形態に批判的ではある)
 
・そういう意味で、中道はそれだけでは愛を生きたことにはならない。
 愛はある意味で、もっとも深い芸術だからである。
 芸術は、闇をおそれない。
 むしろ闇を通してさまざまな光の可能性を表現する。
 そして、芸術においても「型」つまり、基本的な技術は不可欠であるが、
 技術だけの芸術は死んでいる。
 
・「欲」を制御する認識と技術は不可欠であるが、
 それだけでは「欲」は屍になってしまう。
 「欲」を生かす「型」が求められなければならない。


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