●型へ/からの展開(メモ)5 「型と思考」 ・何かを考える、というとき、 あてもなく(というのもなかなかいいのだけれど)というのでは、 いわゆる考えをまとめる、展開させるということはむずかしい。 ・思考にもある種の型の習得が必要なところがある。 ・そもそも思考そのものの働きが「型」とは無縁ではないのである。 思考は生きた生命のようなものであり、 それなりの有機的なかたちをもっている。 ・その思考にある種のソフトとしての「型」を付加してやることで、 思考はその型を使って展開していくことができるのである。 ・もちろんそれには裏面があって、 あまりにもその「型」に思考をはめ込んでしまうばかりだと、 その「型」を抜けられなくなってしまう。 思考のルーティーン化であるが、 さらにいえば、それ以外の思考方法が理解不能になってしまうことにもなる。 ・〜の論理というふうな表現がなされることがあるが、 それもまたある種の「思考の型」であり、そのシステム化だといえるだろう。 ・わかりやすさというのが、わかりやすさよりも、 むしろ危険なところがあるのは、 わかりやすさというのは、多義性を捨象した単純化でもあって、 それは「型」の多様性をもスポイルしてしまいかねないからである。 しかも、始末の悪いことに、そのわかりやすさが 豊かな多様性故に生命をもつことを理解できないままに、 「わかりやすくなければならない」というような 思考のファッショに陥ってしまいかねないところがある。 ・思考の型は習得されなければならず、 その型は多様で、柔軟なものである必要があるが、 それ故に、中心を外れないような 「中道的な」有り様を体現しなければならない。 ・アカデメイアに入るためには、数学がわかる必要があるということだったが、 それは、ひとつには、思考の型をきちんと組み立てる能力を条件としていた のだろう。 しかもそれが単に目に見えるものだけに対してではなく、 対象のないものに対しても可能であるということ。 |
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