風のトポスノート539

 

よくわからない時代のなかで


2005.3.23.

 

	 思想・世界と自己の立ち位置との突き合わせを過剰に要請する純化された
	反省=総括から、反省を目的化する態度への抵抗として立ち上げられた「抵
	抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム)、そして総括的なものへの
	距離感を欠落させた「無反省」(消費社会的シニシズム)、「無反省」のシ
	ニシズムを継承しつつ、「人間的であること=反省的であること」を希求す
	るシニカルな実存主義(ロマン主義的シニシズム)へ。私たちがたどってき
	た反省史はおおよそこのようにまとめることができるだろう。繰り返すが、
	私はこれを頽落の歴史であるとは思わない。ロマン主義的なシニシズムより、
	消費社会的シニシズムや消費社会的アイロニズムが、そして「自己否定」の
	倫理が優れている、などという権利は誰にもあるはずがない。一見ベタに見
	えるロマン主義的シニシズムにしても、ある側面からみれば十分すぎるほど
	に反省的な態度であるといえるし、「自己否定」的な反省主義も、形骸化さ
	れた反省に興じるソンビたちの自己正当化にすぎないともいうことができる。
	 九〇年代以降のシニシズムに違和を感じるからといって、八〇年代前半や
	七〇年代のアイロニー、あるいは六〇年代的なポジショニング=主体性論の
	「可能性の中心」を叫んでみても、おそらくほとんど意味をなさないだろう。
	ポスト八〇年代を生きる私たちは、みなそれなりにアイロニカルであり、そ
	れなりに反省的・政治的なのだから。「アイロニカルであれ」という掛け声
	も「アイロニカルではなく主体的であれ」という掛け声も、アイロニカルで
	反省的なゾンビたちの紡ぎ出す言説の平面上を上滑りするしかない、そんな
	現在を私たちは生きているのではないだろうか。
	(北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』
	 NHKブックス1024 2005.2.25.発行/P236-237)
 
よくわからない時代ではある。
どんな時代もそれなりにわからなくはあるのだけれど、
ほんとうによくわからない時代であるという感慨は
多くの人がもっているのではないだろうか。
 
そのよくわからなさの背景にあるものは何なのだろうか。
おそらくそれは現代のような「消費社会」のあり方ゆえになのだろう。
つまり、かつてはある種のピラミッド的な社会構造が
不完全ではあるがそれなりにシステムとして
意識的・無意識的を問わずある種成立していたのが、
全員参加型ともいえる民主主義的な「消費社会」の成立によって、
事実上、解体してしまおうとしているということなのだろう。
 
その解体に危機を感じている「使命感」のある人間は、
代替的にせよシステム構築を目指してさまざまな試みをする。
過去のような形ではないとしても、
ピラミッド的ななにがしかのシステムへの試行を持っている人は
「改革」もしくは「カイカク」の旗印のもとにであれ、
新たなピラミッド構築によって均衡・安定を目指そうとするように見える。
そしてその一つのガイドになるのは、ある種の伝統的権威の復権と
「消費社会」の基本となっている「マネー」によるシステム構築なのだろう。
 
実際、「社会」の「主体」としての「消費者」のほとんどは、
決して「社会」の「創造者」ではないのだけれど、
それにもかかわらず、携帯電話にせよ、「ユーザー」として、
「消費」のプロセスの循環の中に深く繰り込まれながら、
受容的な創造者として深く関わってくることになる。
そしてその「消費」による受動的な創造があまりにも大きいために、
それがある種のピラミッド的な構造を内部崩壊させていくという側面があるのだ。
 
わからなさというのは、そういう受動的な消費による創造と
それを方向づけるための仕掛け手とのキャッチボールのスパンが複雑で、
その複雑さゆえに、ますますそれが複雑な構造をなしていくということと
それがつくりだす「マネー」があまりにも大きく影響しているということ。
しかしそれだけで人は生きているというわけではなく、
意識的・無意識的を問わず、その上になんらかの安定性をもった社会と
その権威づけを求めているということがあり、
それがさらに国際間のさまざまな駆け引きと相まって、
「ナショナリズム」的な傾向をも紡ぎ出してしまうということ。
しかしそのためには、なんらかの「物語」が必要となり、
「大きな物語」であれ「小さな物語」であれ、
それを信じ込みたいと思いながら常にそれが虚構でしかないということを
認めざるをえないという苛立ちを避けられないということ。
そうしたことが絡み合いながら、
決して認識的にはあまり深まることにない「主体」たちが、
インターネットに象徴されるようなリゾーム的な無秩序さのなかで、
ピラミッド的になりえない構造をつくりだしていることにあるのかもしれない。
 
そうしたなかで、やはり多くの人は、大きな掛け声を求めていたりする。
なんらかの「権威」と「権威でないもの」を峻別しながら、
アンチ=権威も含め、その「権威」に依る自分を肯定したがるのである。
 
そうしたなかで、自分をどのように位置づけるか。
そういう意味で、大変困難な時代を私たちは生きているわけである。
やれやれ。
 


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