風のトポスノート538

 

型と自我


2005.3.21.

 

	 伝統の「型」を」受け継ぐということは、幼児が歩けるようになったり、
	しばれるようになったりするのと似ている。表現する手段を身につけると
	いうことなのだ。だから一通りの「型」の修得が終わって、自分の芸をし
	始める。「四十五十(歳)はハナタレ小僧」という老名人の名言も生まれ
	るだろう。
	 人間とていきなりその形で発生するのではない。約十ヶ月間、母親の胎
	内で、人類誕生数億年の進化の歴史をたどるのである。その過程を経るこ
	とで人として生まれるのである。
	 伝統を権威化するのは意味がない。実力もないのに道具を自慢してその
	気になっているようなものだ。道具の構造を理解し、使い方を知らなけれ
	ばならない。つまり「型」の生まれた必然を考え、現在に意味を持たせな
	ければならない。そのためにも、狂言の進化の過程を繰り返す必要がある
	のだ。
	(野村萬斎『狂言サイボーグ』日本経済新聞社/P153-154)
 
先日来、狂言の「型」についてさまざまに見てくるうちに、
はたと思い至ったのは、「自我」という「型」である。
パーソナリティという「個性」というのもまた「型」なのだ。
そして、その「型」をきちんと修得しなければ、なにも始まったことにはならない。
 
ペルソナという仮面を意味する言葉は、まさにパーソナリティ。
仮面ではあるけれども、その仮面を確立することなくして「芸」は可能にならない。
 
ニューエイジなどで、「あるがまま」とか「そのままでいい」とかいうことが
ときに人格の未成熟の肯定になってしまうことがあるのは、
その「型」の確立なくして、個性、自我を超えられると錯覚してしまうことにある。
 
シュタイナーが、四十歳を超えるまでは、
どんな人でも神秘学の指導などはしてはならないといったのも、
ある意味で、その「型」の確立前における危険性をいったのかもしれない。
そしてそれはかなり成熟を遂げた者についてそういったわけで、
そうでない人はそれ以前の問題であるといえる。
「四十五十(歳)はハナタレ小僧」であるというが、
型をきちんと修得したものでさえそうなのだから、
それが修得される以前の人というのは、「ハナタレ小僧」でさえない。
 
自我を超えていくためには、
自我という型をきちんと修得しておく必要がある。
それが基本である。
そしてたとえ自我を超えたところに行けるとしても、
その自我の器が捨てられるわけではない。
その器よりも大きな器に包み込まれるにすぎない。
 
しかし、人はそれぞれで、転生の過程において、
生を超えて継承されるものもさまざまの段階があるといえる。
そして修得されていないものは継承されることはなく、
いつか自分で自分に種を植えそれを育てていくことなくして継承される何物もない。
今自分のなかで確立されていない「型」は、
放っておけばそれだけのものとなってしまう。
「型」を通じて常にその「進化の過程を繰り返す必要がある」のである。
そこに錯覚が存在する余地はない。
「型」は修得されなければならず、
そしてそれを踏まえながら自分の「芸」をはじめなければならない。
 
ぼくも実際、「ハナタレ小僧」でさえない存在だが、
それゆえにこそ、「型」を身につけなければならないと切に思う。
その「型」をどれだけ身につけることができるかによって、
「芸」の可能性もまた開かれるといえるのだから。
 


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