風のトポスノート537

 

同一性のない無縁のトポス


2005.3.13.

 

	 農民と非農業的なほんらいの職人とのあいだには、網野さんが主張
	していたように、みな中世的な広い意味における職人として本質的な
	ちがいはないのだと言えますが、それと同時に、いっぽうが「同一性
	をもつ空間」と深く結びつき、もういっぽうが「同一性のないトポス」
	に生きる人々であったところから、「人民」という概念の内部に、
	「農業」と「非農業」という二つの構造層への分解が発生したのだと、
	考えることができるでしょう。「農業」は権力の原理に本質的に結び
	ついています。それにたいして、「非農業」はこの列島においては、
	権力の原理の外にある、というのがほんらいのありかたです。そのた
	め「非農業的」な職人は、同一性の原理の外に排除されやすく、する
	とそこにはたちまち差別のメカニズムが働くようになります。
	・・・
	 学問的な思考は、たいがいの場合、自分に同一性をつくりだそうと
	する共同体の戦略の側に立つことになります。なぜなら、学者は自分
	の考えたり語ったりしていることに、論理的な整合性を求めようとし
	ます。人から尊敬される言説をおこなうためには、どうしてもそれが
	必要なのです。するととたんに、共同体の思惑と同じポジションに立
	つことになってしまいます。そうして、知らず知らずのうちに、ケガ
	レをになったものたちをエンガチョする側の論理に立ってしまい、そ
	のうちこれはまずいと気がついた場合などは、エンガチョ行為そのも
	のを人道的に批判してみせることで、内心の葛藤にふたをしてしまお
	うとします。
	 網野さんはそういう学問的思考の構造そのものを。根底からくつが
	えそうとしました。そのために、共同体の同一性の側に立つのではな
	く、過剰した力がわきたっている同一性以前の場所に立とうとしたの
	です。
	・・・
	 網野さんにとって「非農業」とは、たんに水田耕作をしない職人や
	商人のことを意味していたのではありません。その生活形態や生業の
	性格によって、同一性をもった空間ではなく、移動や変化を特徴とす
	る空間以前のトポスを活動の場所としていた人々のうちに形成される
	世界、それが「非農業」です。同じ原理が人間関係に働くとき、そこ
	には組合が生まれます。組合に入るためには、人は土地との結びつき
	をもった縁を断ち切ってこなければなりません。そして、おたがいが
	無縁となり平等となった人間同士が、女性的な性格をもつトポスのう
	ちに集まって、なにか抽象的な原理をもとにしてかりそめの構造をつ
	くる。それが組合というものだとしたら、たしかにそれは「非農業」
	と同じ本質を持っています。
	(中沢新一「自由の歴史学のために」すばる4月号所収/P176/178/186)
 
すばるの4月号に中沢新一の網野善彦についての
「自由の歴史学のために」という、講演をもとにした論考が収められている。
 
この引用部分でも少しふれられているように、
網野善彦の歴史学は、「共同体の同一性の側」にではなく、
「同一性以前の場所」に立とうとしたものだといえるように思う。
それがぼくにはとても魅力的なのだけれど、
逆に「共同体の同一性の側」に立っている者にとっては、はなはだ居心地が悪く、
ほとんど無意識的に理解の外に置かれてしまうのかもしれない。
 
「おたがいが無縁となり平等となった人間同士」というのは
「共同体の同一性の側」からみれば、はなはだ危険な存在となる。
それは共同体を常におびやかすものであるからである。
しかし、共同体の内部にも、常にそうした非同一的なトポスは置かれていて、
それは共同体の内部の非日常的なものとして機能しているのだけれど、
それはあくまでも非日常でしかないのであって、
それがフロントに出てしまうということに対しては激しい抵抗をすることになる。
 
権力は、その内部に権力の外にあるものを抱え込んでいながら、
権力が効果的なものとして機能するように働くわけである。
そして、共同体を同一的なものとして有効に機能させたいと思う
善意の無意識的なひとたちは、そうした非同一的なものを
決して受け入れるわけにはいかないうという態度をとりやすい。
共同体の内部であるということと外部であるということを
截然と区別する立場にとるのである。
だからナショナリズムは、みずからの民族の物語を強固にし、
外部の民族から差別的な仕方で際だたせようとすることになる。
そして、「自由」ということに対して、異議を挟むことにもなる。
ある意味で、答えのある問題しか用意したくないわけである。
すべての構成員を「縁」でつながなければならない。
その「縁」の結果が「指紋押捺」だったりもする。
 
網野善彦の仕事を評価する中沢新一の視線に
とても誇らしいものを感じるのは、
それがまさに「自由」に関わるテーマだからなのかもしれないと
あらためてこの論考を読んで感じた。
 


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