風のトポスノート536

 

想像力


2005.3.13.

 

	 少し前の話になるが、あるシンポジウムで今村昌平監督と原一男監督が
	「ゆきゆきて進軍」をめぐって興味深いやりとりをしていた。映画の主人
	公である奥崎兼三が「かつての軍隊の上官をこれから殺しに行くからつい
	てきてそれを撮れ」と原さんに申し出た。悩んだ原さんは今村さんに相談
	に行った。今村さんはこう答えたそうである。「殺人のシーンをそのまま
	撮影して、それが表現になりますか?あなたが描きたいのは殺人なのです
	か?人間が内包している殺意ですか?もし殺意なのであれば、それは必ず
	しも殺人をそのまま描写しなくても描けるのではないですか?」うろ覚え
	なのでディテールは異なるかも知れないが、大まかに言うとそのようなや
	りとりだったと記憶している。この時の今村さんの「殺意は殺人そのもの
	を描写しなくても表現できる」という言葉は、とても重いものとして僕の
	中に存在し続けている。
	 もちろん映像表現をめぐって全く逆の考え方もあり得るとは思う。即物
	的にすべてを見せようとすれば見せられるし、それが映像表現の強さ、オ
	リジナリティではないかと。
	 それはつまり『プライベート・ライアン』の非日常的な戦場生中継(的)
	シーンこそ映画だと考えるか、原爆が落とされる前日の日常のディテール
	の積み重ねを見せて、この日常が一瞬にして失われるのだということを暗
	示することで「戦争」を表現するのか?という、これはもう哲学の違いだ
	ろう。
	 僕自身は今、後者の表現の先を模索している。その理由のひとつは、前
	者が辿り着くのは結局ニュースの生中継的映像であり、それは表現として
	現実から屹立し得ないのではないか?という疑問があるからだ。もうひと
	つの理由は、後者の想像力が今世界から急速に失われつつあるのではない
	かという危惧を抱いているからである。
	 見せることの刺激よりも、見せないことで生まれる想像力の深度と広が
	りをーーつまりは、「闇の中に何かがいる」という不安が、どんなに不気
	味なエイリアンを造形して見せることよりも「恐怖」の表現としては強い
	のだ、と信じる立場に僕は立っているということである。
	(是枝裕和『演出ノート』より/
	 是枝裕和監督作品『誰も知らない』DVD 所収)
 
絵に描いた餅では腹はふくらまない。
だから重要なのは現実の餅なのだ。
そういう考え方というのは実際のところ根強い。
 
人はパンのみにて生きるのではない。
そういう考え方もある。
 
どちらかの見方が間違っているのではないのだろう。
しかし想像力ということを問題にする場合には、
少なくとも即物的なあり方から飛翔している必要があるだろう。
 
人は想像力が貧しくなるときに、
往々にしてきわめて即物的になってしまうのだ。
人は多かれ少なかれなんらかの想像力によって
現実を再構成しているところがあるのだけれど、
想像力が貧困な場合、その現実はおそろしくうすっぺらで狭く、
即物的な反応しかできなくなってしまう。
 
昔学生の頃、文学作品の受容ということをめぐって
「空所」という議論を展開した学者の書いたものを読んだことがある。
たしかW.イーザーだったと思う。
そのなかで「欠損した現実をイマジネールに克服する」というフレーズがあって、
そのフレーズがちょっとしたギャグのようになっていたことがある。
 
まあ、どんな人でも多かれ少なかれ、
自分が再構成している現実というのは「欠損」しているのだろうが、
その欠損部分をどのように埋めるかは、
その人の想像力次第というわけである。
これは、正解のあるテストの穴埋め式問題のようなものではないから、
「何が正しいのでしょうか」ときいても仕方がない。
その欠損したところをなんとか埋めながら人は生きている。
もちろん、現実がどこもかしこも欠損だらけなのに恐怖して、
その欠損を「常識」とやらでとりあえず埋めて安心立命する人もある。
「お金がすべてだ」と思う人は、お金儲けがその人の安心立命になり、
「人から尊敬されることだ」と思う人はそれで安心立命する。
 
そうしたなかで、想像力が固定化され常識化されてしまったとき、
おそらくその固定化したものが「現実」だとされることになり、
上記引用でいうと「戦場生中継(的)シーン」がそれだとされるようになる。
それ以外のことでは何も自分の想像力にひっかかってこなくなるのだ。
まるで麻薬中毒のようなもの。
重要なのは、想像力に深度と広がりを獲得させ、
それによって常識的に現実とされていることよりも、
はるかな現実を再構成し得るようにすることなのだろう。
 
百聞は一見にしかず、という言葉があるが、
だから必ずしもそうとはいえない。
そうでなければ、対象のない思考も成立しえなくなる。
しかしだからといって対象がいらないということにはもちろんならない。
重要なのは、聞くこと、見ることなどをいかに深めるかということでもあるのだから。
そして聞かなくても見なくても可能な世界をも開示しえることなのだから。
そしてその両者は相互に深め合うこともまた可能だといえる。
 


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