風のトポスノート535

 

愛と瞑想


2005.2.27.

 

	おぼえておくことだ。
	あなたは愛について多くのことを知ることができる。しかし、それは愛を知る
	手助けにはならない。愛は、唯一愛することによってのみ知ることができる。
	ということは、それについてなにも知ることなく、ただ愛の中に進んでゆかな
	ければならないということだ。
	だからこそ、勇気がいる。あなたは暗闇の中に進んでゆかなければならない。
	地図はなく、誰一人ガイドもなく、松明さえない。あなたは、自分がどこを進
	んでいるのか知ることもなく、正しい進路をとっているかどうかも知らず、自
	分が道を見つけるのか、それとも溝に落ちて永遠に迷うことになるのかも知ら
	ずに、ただ闇の中を進んでゆかなければならない。
	・・・
	愛の道では、信頼が最も本質的な事柄だ。瞑想の道では、あなたは信頼なしで
	進んでゆける。瞑想の道では、あなたは自分を明け渡さずとも進んでゆける。
	だが、愛の道は明け渡しなしでは、信頼なしでは進めない。
	というのも、それがまさに最初の扉だからだ。愛は多大な要求をする。それは
	ほとんど不可能を要求する。しかも、その第一歩でだ。愛はたやすい。だが、
	多くの要求をする。だから、その道は非常に簡単であるにもかかわらず、それ
	を旅する人はほとんどいない。
	瞑想の道は非常に困難だ。しかし、それほど要求は強くない。だから、その道
	は困難で骨が折れるにもかかわらず、多くの人がそれを旅する。
	愛についてなにか聞くと、それは非常に単純で、たやすいように聞こえる。だ
	が、その要求を見ることだ。瞑想の道では最後の一歩で要求されるものが、愛
	の道では最初の一歩で要求される。
	(ラジニーシ『バウルの愛の歌(上)』めるくまーる社/ 1983.9.10.発行/P.38-44)
 
仏教では「愛」は執着とみなされる。
先日読んだ『ブッダの真理のことば』にはこうあった。
 
	愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人と会わないのは苦しい。
	また愛しない人に会うのも苦しい。
	それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する
	人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
	愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離
	れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
	愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存
	在しない。どうして恐れることがあろうか?
 
確かに愛はある意味で苦悩の種をつくってしまう。
原因をつくらなければ結果は生じない。
因果を超えるためには種を植えないことがいちばんである。
そして、確かな確かな道を歩んでいくに越したとはないだろう。
 
イエスは「愛せよ」といった。
ある意味で、これほどシンプルな教えはない。
しかしそのシンプルなことばのなかに
ある意味ですべてがふくまれているのだ。
もちろん、それはほとうもなく困難なことだ。
だから仏陀はその危険性を選ばなかったといえるのかもしれない。
危険な道を往け!とは決していえるものではないのだから。
地図もなく道しるべもなく、
暗闇のなかをガイドも連れずにただひとり往け!
とはいえるはずもない。
 
しかしこの生を生きるということは、
ある意味で、それを要求しているのだということを
年を経るにつれて思うようになった。
地図をつくり情報を集め確かな道をゆくこと。
それだけでいったい何が「生きる」ということなのだろう。
 
よく、結婚相手に望むものは?
というアンケートがあったりするが、
まず「やさしさ」や「年収」や「容姿」などを相手に望むことが多いようだ。
なぜ「好きな人であること」「愛する人であること」が
まったく挙げられないのだろうか理解に苦しむのだが、
結局のところ、「愛する」ということを巧妙に避けながら、
「確かなこと」を相手に要求しているということができるのだろうと思う。
だから「友愛」と「愛情」を分けたりもする。
そんなことはありえないことなのに。
 
愛すること以外には必要ないところに、
あらゆるほかのものを持ち込むことで
愛を不可能にしているという現代人の戯画があるような気がしてならない。
「誰を愛しているのか」ということがないままに、
「結婚したい」とかいうことがでてくるという不可解さ。
せめて「瞑想」の道であれば確かでいいのだけれど、
まるで対症療法で与えられる劇薬のような「欲」だけを摂取し
「愛する」ことが自分ではますますできなくなってしまう。
たとえば熱を出すということを押さえてしまうと
身体の自動調節機能が働かなくなってしまうように、
愛することを押さえてしまうと、愛は働くことができなくなってくるのだ。
愛の熱は、おさえるためにあるのではなく、愛を働かせるためにある。
 
シュタイナーがなぜ「仏陀からキリストへ」というのかも
ここから考えてみることができる。
シュタイナーの神秘学は、仏陀的な瞑想による確実さを柱としながらも、
「愛せよ」というキリスト・イエスのようなところを併せもっている。
シュタイナーにおけるキリストを避けて通る向きは多いのだけれど、
それではおそらく精神科学にはならない。
その「愛」はまさに森羅万象、宇宙全体へまで及んでいる。
ただの「心の教え」ではないというのもそういうことである。
鉱物の輝きに心ときめかせ、鳥の飛翔にこころときめくのも、
また精神科学にほかならない。
 
そういう意味でも、シュタイナーの示唆している結果だけを
摂取しようとすることはできない。
愛することなくして、愛を得ようとするようなものなのだから。
 


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