覚 20代の からだの意識の しかたは表面的なんです。 谷川 たしかに20代なんて、ほとんどからだを 意識してなかった。 生理的なことをとおして、 ある程度意識はするんだけど、 それはほんとうに表面的だよね。 今のからだの意識とは違う。 覚 うん、ぜんぜん違いますね。 谷川 20代のころは、 「からだを理解しよう」とか、 「からだとはどういうものか」 ということは、あんまり考えないでしょ。 覚 「からだを味わおう」 というのも、考えつかない。 谷川 そうだね。 覚 「からだに起こっている感覚を味わおう」とか、 「こういう感覚が起こっているのは、 なぜなんだ?」 という発想は、 20代にはぜんぜんないですよ。 お肌が荒れたからクリームつけなくちゃ、 という程度です。 谷川 うんうんうん。 ── 今は、味わおうとしているわけですか。 覚 うん。いいことも、トラブルも。 「だからからだ」 谷川俊太郎と覚和歌子、詩とからだのお話。 第6回「20代は、からだより、ぜんぜん頭。」 「ほぼ日刊糸井新聞」連載記事より http://www.1101.com/dakarakarada/index.html ほぼ日で今連載されている谷川俊太郎と覚和歌子の 詩とからだのお話「だからからだ」がおもしろい。 今日は、20代のからだともっと後になってからのからだの 意識の仕方のちがいについての話が面白かったので引用してみた。 あらためて感じ/考え/意識し/てみる「からだ」は とてもふしぎに満ちている。 10代とか20代とかだと、 やはりじぶんの「からだ」というのを 半ばもてあまし気味のところが いまよりもずっと多かったように思う。 そのころもいまも、 「からだ」はじぶんのからだであると同時に どこかじぶんのからだでもない、というところはあるのだけれど、 以前と今とでは、じぶんであるように感じるところと そうでないぶぶんとの場所が違ってきているように感じたりもするし、 全体として、じぶんでないところが ふえてきているようなところもあったりする。 それは、否応なくおそらく少しずつからだの機能が低下してきていて 無理がききにくくなってきているためでもあるのだろうが、 それには、意識の働きの違いも大きいのだろうと思う。 そして次第にぼくのからだも あと何十年か後には 確実に死に向かって機能を失ってくるわけだけれど、 それに反比例するようにして ぼくのなかでは別の何かが成長してくるのだろう。 だから、年をとるということは、 機能的には低下してくるからだとともにありながら、 それを通じてしか可能ではないなにかを得ることができるように 注意深くなければならないのだと思う。 だから、アンチ・エイジングとかいうのもいいけれど、 そればかりにこだわっていて 大事なものを取り逃がしてしまうというのはやはりまずい。 たとえば、思考するということは 確実に生命力を犠牲にすることなのだけれど、 生命力を高揚させるために思考を劣化させるというのは 人間を否定してしまうことにもなりかねないからだ。 欲望という肉体×アストラル体の衝動も それに突き動かされるというのをできるだけ去って それを味わうようにすれば 年を経ることでしか味わえないものを そこで味わうことができるのだろうと思う。 しかし、それはそれとしても、 からだというのはどちらにせよやっかいなもので、 そのやっかいさをなだめすかしながら そのからだのなかに住むことでしかできない何かが ちゃんとできるようにするというのは、やはりそれなりにキツイ。 とはいえ、あれこれ考えていくと 死ぬときのことはけっこう楽しみなところもあるなあと楽観的な気持ちになる。 死にたいとかは今のところ思わないし、 それにともなって到来するであろう苦しみは避けたいが、 今から死に至るまでのプロセスをそのときにじっとふりかえることができたとしたら けっこう味わい深いところがあるだろうし、 そのためにも、いまからじっとからだを味わうプロセスについて 意識的であることはとても重要なことだという気がしている。 |
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