風のトポスノート533

 

芸術/エンデとボイス


2005.1.23

 

「芸術」とはいったい何か。
 
日本語で「芸術」ということばを目に、耳にすると、
「芸」と「術」という言葉でイメージするのとは少し違ったものを感じる。
ときにちょっと高尚?な感じもしてみたりする。
 
ドイツ語では芸術のことをKunstという言葉で表すが、
それは同時に「術」「技術」という意味の言葉でもある。
英語でいうartであり、
「人工」という意味も併せ持っていることがよくわかる。
ちなみにドイツ語でArtは性質や様式などを意味する。
 
たしかに「芸術」という日本語がつくられたとき、
やはりそれまで「芸」といわれていたものに
技術的な意味での「術」が付加されたのだろう。
たしかにKunstでありartなのだけれど、
「芸術」という表現をされるとき
技術的な部分は少し希薄になるのかなという感じも受ける。
 
シュタイナーは教育に関して「教育芸術」という表現をすることがあるが、
訳語的に「教育芸術」ではなく「教育技芸」とされることもある。
しかし「技芸」となるとかなり記述的なイメージが強くなる。
翻訳はむずかしい。
Geistを訳するときに、霊とするか精神とするかのように。
霊学と精神科学はどちらもGeisteswissenschaftなのだが
霊学というのと精神科学というのとでは異なった受け取り方をされやすい。
 
さて、先日来、エンデとボイスについて、
ひさしぶりにいろんなことを考えてみる機会をもっている。
久しぶりに読み返している『芸術と政治をめぐる対話』では、
両者の「芸術」についての見解が微妙にすれ違っているのがおもしろい。
 
エンデは、「芸術」という言葉を非常に慎重に使おうとし、
とりあえず基本的に特定の職業のなかにおける役割をベースとして
理解していこうとする態度をとっているようだが、
ボイスは「だれでもが芸術家」であり、
「社会芸術」というように「拡大された芸術の概念」を
かなり無造作に使う傾向にあり、
その違いが両者の「芸術」に対する微妙な理解の差を浮き彫りにしている。
 
両者ともシュタイナーのいう「自由」についても、
また「芸術」の重要性についても、
基本的なところで通じてはいるのだけれど、
印象としていえば、ボイスが社会とその未来をとらえるときに
どちらかというと楽天的なとらえかたをし、
人間とその自由を信じているところがあるのに対して、
エンデのほうは、どちらかというとペシミスティックにとらえ、
だれでもが自由だとか創造性をもっているとか、
だれでも芸術家でありうるということについても懐疑的なところがある。
 
単純にいえば、エンデは闇の底を歩んでいることを認識しながら、
そこで希望としての言葉を紡いでいくのが
言葉をつかっている芸術家としての役割だととらえているのかもしれない。
だから、慎重に、ずっと先のことは見えない、見えるのは少し先だけだ、
という意味のことを語る。
まるで手にカンテラをともしながら闇を歩んでいるような感じである。
しかしそれだけに、芸術の持つ役割を深くとらえようとしているところがある。
職業としての芸術をいうときにも、
おそらく言葉を使う「技術」についての意識もあるのだろう。
そういう意味では「だれでもが芸術家」だとかはたしかに言いにくい。
 
ところで、先日から小沢昭一の「日本の放浪芸」についての
さまざま録音や著作なども見ているのだが、
これは「芸術」というよりも、「芸」という言葉のほうが近いかもしれない。
そこにはさまざまな意味での「技術」が存在している。
 
そして、これが重要なのだけれど、「放浪芸」というときの
「放浪」という言葉が示しているように、
日常的なものではなく、非日常なものとして、
その「芸」がとらえられていることがわかる。
それは正月や縁日などでの楽しみのひとつということでもあるが、
そこには宗教的な意味での「非日常」という要素も本来強く存在していること 
がわかる。
そこでの「技術」としての「芸」は、非日常からやってくるものなのだ。
だから説法の話芸としても、その「芸」が用いられたりもするわけである。
 
エンデは、シチリア島のパレルモの広場で、
カンタストーリエと呼ばれる語り部の朗々とした語りを聞いたらしいが、
エンデの底にもそういう「語り部」的な意識が強くあるのかもしれない。
そしてその語り部としての語りのなかで
「ファンタージエン」を創造しえる人間の自由への
「はてしない物語」を紡ごうとしていたのだろう。
 
そこにも、日常的なもののなかからではない、
非日常的で宇宙的なものとしての「芸術」の役割がある。
そこでエンデとボイスが微妙にすれ違う感じを持つ。
むしろボイスは世界各地に伝わっている民俗芸能や宗教儀式にも通じているような
「芸=芸術」のほうに近い位置にいると自分を見いだしていたのだろうか。
 


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